


琉球大学は米軍統治下の1950年に設立され、72年の本土復帰を機に国立大学となりました。戦後の混乱のなか「地域貢献大学」として沖縄復興の使命を担い、誕生した総合大学です。多様性に富んだ自然環境と、アジア太平洋地域との関係において培われたユニークな歴史や文化を持ち、地球上のあらゆる場所で活躍できるグローバルシティズン(地球市民)の育成を目指しています。喜納先生は琉球大学初の女性学長です。
【喜納 育江(きな・いくえ)】
1967年生まれ。沖縄県出身。英米文学博士(Ph.D.in English)(米国ペンシルべニア州立インディアナ大学)
1990年琉球大学法文学部文学科英文学専攻卒業。96年米国ペンシルべニア州立インディアナ大学英米文学部大学院博士課程修了。同年琉球大学法文学部講師を務め、助教授、教授、うない研究者支援センター長、男女共同参画室長、ジェンダー協働推進室長、附属図書館長、副理事・副学長等を経て、2025年に琉球大学学長就任。専門はアメリカ文学、ジェンダー研究。
家は「町の電気屋さん」でした。沖縄の米軍基地で電気関係の技術職に従事していた父と、工務店で経理の仕事をしていた母が、結婚して開いた小さな家電店です。学校から帰ると、店番をしている母と、そばで常に何かを修理している父。母は冷蔵庫を買い替えに来たお客さんに「お宅のはまだ10年くらいだから、直せば十分使える」なんて言って帰してしまうような人です。社交的ですが、商売に向いていたのかどうか(笑)。父はいるかいないかわからないくらい物静かで優しい人でした。
私や弟の面倒は、主に祖父母が見てくれました。祖父母と言っても血のつながりはありません。戦争などで子どもを失くした祖父母と、家族がいなかった私の父が元々親しい間柄で、そこに母が嫁ぎ、4人で〝家族〟になったのです。私は愛情をかけて育ててもらい、血縁関係だけが家族ではないということを学びました。祖母はひらがな、母は辞書の引き方を教えてくれたので、小学校に入学する前から本をたくさん読み、国語が得意科目に。父からはブロークン・イングリッシュとタイプライターの使い方を教わりました。家族みんなができることを持ち寄って私の世界を広げてくれた、そのことに感謝しています。
家は決して裕福ではありませんでした。でも、ピアノや習字やバレエ、中学からは学習塾にも通わせてもらい、授業参観やお稽古事には必ず祖母がついて来ました。祖母は勉強したくてもできない時代に育ち、小学校しか出ていません。孫の姿に自分を重ねて学び直しをしていたのでしょう。母も戦時中は宮崎に疎開したため、高校は中退です。だから、勉強をしたくてもできない人もいるということが常に私の頭にありました。
▲祖父母に育てられ、地域のお年寄りと接することが多かったので、私の年代では珍しく「琉球語」を話せます。これは大きな財産です。
そのような家庭環境に育った私にとって勉強は、人生の糧になる知識を積み重ねていくためのもので、受験のためという概念はありません。実際、高校時代は、受験勉強もあまりしませんでした。首里高校3年の時、親友が理系クラスに行くと言うので私も理系を選択。女子は1クラス44人中8人だけでした。常にトップの成績を取るのはナオコさんという女子生徒で、テストも大抵100点でした。この時から私の中で「理数系は男子が得意」は都市伝説と化し、現在取り組んでいる「ジェンダー平等」の原点にもなりました。
高校時代は勉強もしましたが、それ以上に友達とおしゃべりばかりしていました。学校近くの喫茶店で何時間も。とにかくおしゃべりが楽しくて仕方なくて(笑)。好きな書道にも力を入れました。書道部に所属し、将来は指導者になろうと考え、専門的に学べる大学を推薦で受験しましたが、残念ながら不合格でした。
琉球大学の英文科に進んだのは、浪人中に知人のイタリア旅行に同行したことがきっかけです。普段自分が使う言語が通用しない世界に初めて身を置き「これはまずい!」と。英語は得意科目でもあったので、方向転換しました。
▲(上)幼稚園の学芸会で。前列左端が喜納学長。
▲(下)高3の理系クラスの女子8名で。右端がナオコさん、前列左端が喜納学長。
当時、琉球大学英文科の先生はアメリカで学位を取った方ばかりで、授業で使うテキストは1年次から全部原書。周りの学生たちも優秀で、英語が得意という私の思い込みは一気に崩れ去りました。祖母に頼んで「成人式の着物代わり」としてハワイに1か月、語学研修に行かせてもらったのですが、自分の英語が現地でほとんど通じず、さらに自信を失くす結果に……。
そんな時、父にがんが見つかりました。すでに末期で、闘病は見ているのも辛いほどでした。その姿に「命ある自分が一生懸命に生きなくてどうするのか」と頭を殴られる思いで、諦めかけていた米国留学にチャレンジすることに。文部省(当時)の派遣留学制度を活用した米国ミシガン州立大学への留学で、期間は10か月です。不安はありましたが「苦労は買ってでもしなさい」というタイプの母に背中を押されました。
ミシガン州立大学では、たくさんの学びがありました。琉球大学で懸命に学んだ膨大な英語をアウトプットできている感覚があって、友達もすぐにできました。このことから、留学は日本で基礎ができていて初めて成果につながることを実感。ほかにも博士課程の学生がTA(ティーチング・アシスタント)をする授業があったり、TAの中には女性文学を研究する車椅子の女性学生がいたり。自分の知らない世界がとても新鮮でした。
留学で女性文学に興味を持った私は、沖縄県の海外留学制度を活用して米国ペンシルベニア・インディアナ大学大学院に入り、女性文学を研究。博士課程に進み、4年半かけて英米文学博士の学位を取得しました。博士論文のテーマは「先住民女性の文学」です。ナバホ族やホピ族などアメリカ先住民の調査・研究を行うなかで、独自の言語や文化を持ち、占領された経験もある沖縄と境遇が非常に似ているなと親近感を覚えました。
▲アメリカでの大学院時代。友人の卒業式の日の一コマ。右端が喜納学長。
留学で一番の収穫は、お手本となる女性に数多く出会えたこと。日本で「女性の活躍推進」が言われるようになったのは最近ですが、アメリカの女性は何十年も前から、職業・地位に関係なくしっかりと自分の考えを持ち、自由に意見を言っていました。当時はそのことに驚き、「日本は社会が求める女性像に縛られ過ぎている」と感じたことを覚えています。
帰国後、琉球大学法文学部の講師になって意識したのは、作品を読んだ感想を学生からどんどん引き出すこと、意見を自由に言える雰囲気づくりです。文学はその時代の人の声が作るものなので、声を発していく大切さを伝えました。ジェンダー協働にも取り組んで10年以上になります。無意識の偏見を失くさなくてはイノベーションにはつながらないので、教職員の意識改革には最も力を入れました。
2025年に、本学創立75年目にして初の女性学長に就任しました。リーダーとして大事なのは、どんな組織を築いていくかであり、そのためのチームワークづくり。チームの理解と協力があれば、学長の仕事は男女問わず誰にでもできる――そう考えて、日々の職務に取り組んでいます。
▲学長になって1年目に1200人の方と名刺交換。 社会と関係を結びネットワークを持つことが、学長の大きな責務と実感しました。
昔と違って今は、小中学校の先生も保護者も高学歴の方が増えました。ご自分なりの教育論や方針をお持ちの方も多いでしょう。でも、ICT(情報通信技術)やAI(人工知能)の時代に入り、未来は予想がつきません。そんな予測不能な未来に立ち向かうには、教育論をアドバイスすること以上に、子どもたち自身が考えて答えを出す姿勢を育むことが大事だと考えます。
また、今は「個性を大切に」と言いながら、自由にものを言ったり振る舞ったりすることが難しい時代でもあります。それでも私は、子どもたちには自由にものごとを選択し、その選択を責任を持ってやり遂げてほしいなと思います。時には流れに身をゆだねることもあるでしょう。私が学長に就いたのもそうです。そんな時でも、たどり着いた場所で全力を発揮してほしい。そこに、それまで気づかなかった自分の新たな価値や役割があるかもしれませんから。
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