2025年10月号 わたしの勉学時代 広島市立大学長 前田 香織先生に聞く

1994年開学の広島市立大学は、建学の基本理念に「科学と芸術を軸に世界平和と地域に貢献する国際的な大学」を掲げる公立大学です。国際学部・情報科学部・芸術学部の3学部からなり、教員1名あたりの学生数約2.2名の少人数教育を実践しています。2025年4月に学長となった前田香織先生は、開学した年から同大学で情報通信分野の研究と指導を続けてこられました。インターネットの黎明期から、第一線を走り続けてきた前田先生にお話を伺いました。

【前田 香織(まえだ・かおり)】
1960年生まれ。広島県出身。博士(情報工学)。
82年広島大学総合科学部総合科学科卒業。同年広島大学工学部助手。90年(財)放射線影響研究所。94年広島市立大学情報科学部助手などを経て、2000年同大学情報処理センター助教授。07年から23年まで同大学院情報科学研究科教授。その間、同大学情報処理センター長、副理事、附属図書館長、情報科学研究科長、情報科学部長を歴任。23年から特任教授(CDO)、24年から理事長補佐も兼任。25年4月理事長・学長に就任。専門は情報ネットワーク、インターネットアーキテクチャ。

性格は物おじせず活発だった

 生まれてから現在まで、東広島市に移転したばかりの広島大学に助手で勤務していた数年間以外はずっと広島市立大学がある広島市安佐南区で過ごしてきました。というのも、私が広島市から出ることを父が許してくれなかったからです。もちろん、就職の際などに県外に出ることも考えましたが、その度に、外堀を埋めるように「都会は危険が多い」といった話をしてくるんです(笑)。心配もあったのでしょうが、女性は学校を出たら地元で結婚して家庭に入るものという、当時の価値観も後押ししていたように思います。
 そんな父は高校の数学教師で、専業主婦の母、年子の弟との4人暮らし。父はバレーボールの実業団チームに入ろうか迷うほど、バレーボールに打ち込んでいたものの、将来を考え教師の道へ進んだそうです。もちろん、勤めた高校ではバレーボール部の顧問に。よく自宅に部活の生徒さんが来ていました。夏の合宿に私も連れて行ってもらったことがあり、高校生のお兄さん・お姉さんたちと海水浴を楽しんだ思い出があります。卒業生もよく遊びに来るにぎやかな環境だったためか、誰にも物おじしない活発な性格でしたね。人の出入りが多い家で、自然とコミュニケーション力が磨かれていたのかもしれません。

▲2〜3歳頃・お父様と。勉強に関しては何も言わなかった父ですが、大学受験で数学の道を目指すことを話すと、毎日のように「課題」を持って来てくれました(笑)。

勉強は「するのが当たり前」

 勉強は、小学生の頃から「するのが当たり前」と思っていました。なぜなら、父が家でテストの採点をしていたり、数学の教科書が置いてあったり、母も当時では珍しく短大まで進学した人だったりと、勉強に関する雰囲気に包まれた家だったからです。私にとってはそれが「日常」だったので、自然と受け入れ淡々と勉強していました。
 中学は、中・高・大一貫の私立女子校に進学しました。きっかけは両親の勧めでしたが、私も公立に進むと父と同じ学校に通う可能性もあったので賛成しました。中学に入ると、私以上に数学が苦手な同級生が大勢いることに驚きました。小学校までは算数が苦手だと思っていたのですが、この時「あれ? 数学、得意かも」と勘違いをしてしまったことが、理系分野へ進むきっかけだったのかもしれません。
 部活は、高校の途中まで合唱部に入っていました。キリスト教系の学校だったので、讃美歌を歌ったり、毎年12月には『メサイア』という曲を、一貫の大学の聖歌隊や男性合唱団と一緒に歌う音楽会に参加したりしました。夏には合宿もあって、自分たちでご飯を作ったり、教室に寝泊まりしたり、合唱部の割に体育会系な面もある楽しい部活動でした。

図らずも研究者の道へ

 大学は、広島大学の総合科学部へ進み、数学の知識で情報処理やデータ解析を行う「情報数理」を学びました。薬学部も考えましたが、父の見立てでは合格は厳しく、かといって広島からは出してもらえない。それならせめて数学を学びたいと思い、選びました。もしかしたら、当時父がよく口にしていた「これからはコンピューターの時代だ」という言葉が影響していたのかもしれません。
 この時、初めて「プログラミング」に出合います。当時は「パンチカード」という、厚紙に小さな穴を開けたものを使用し、空いた穴の並びでプログラムの内容を表していました。FORTANやBASICというプログラミング言語など人間に理解しやすい高級言語は存在していましたが、卒業研究で対象にしたのはコンピューターが直接理解して処理できる低級言語(アセンブリ言語)でした。もちろん、当時は今日広く活用されているプログラミング言語であるPythonやJavaなどはありませんでした。いずれにしろ、プログラミングにわずかでもミスがあれば、入るはずのスイッチも入らないため、機械が指示通りに動いてくれた時の感動は大きかったですね。
 ただ、困ったのは就職です。当時、情報処理系の業務に女性が採用されることはまれで、仮に枠があってもほぼ東京の企業。4年生の冬になっても就職先が決まらず困っていたところ、偶然、広島大学工学部の助手のポストが空いたという話が舞い込み、これが、現在まで続く研究者としての第一歩となります。大学院を出ていない私が、同世代や先輩にあたる修士・博士課程の学生さんと研究することになったため、ついていくのに必死でした。

▲新人助手時代の先輩になる博士課程の学生さんとは後に、インターネット分野で一緒に汗を流すことになったり、この大学で同僚になったりとご縁が続きました。

ネット黎明期の発展に貢献

 工学部に8年間勤めた後、放射線影響研究所という、広島・長崎の原爆被爆者に対する放射線の影響を調査する研究所に移ります。そこで上司だったアメリカ人の女性部長から「大学で情報処理分野の仕事をしていたなら、この施設でインターネットを使えるようにしてほしい」と頼まれたのが最初の仕事でした。インターネットは専門ではなかったので困惑しましたが、「なんとかしなくては」と奮起。広島大学の先生に相談して、それこそネット回線を敷く作業から始めました。日本電信電話株式会社(現NTT株式会社)にアドバイスを求めた際には「光回線で一体、何をするつもりですか?」と怪しまれもしました(笑)。当時の日本では、インターネットの認知度はその程度でした。実際、ゼロから構築した地域インターネットで、広島大学と放射線影響研究所が県内初のインターネット拠点となったのです。
 その後も、広島市などの自治体や学校、民間企業なども次々とつながっていき、メールを送ったり画像を共有したりするという「今までできなかったこと」が可能になっていきました。インターネット黎明期のそうした発展に寄与できたことは喜びでもあり、誇りでもあります。これをきっかけにインターネットに興味を持ち、どうすればもっと高速で、大容量のデータを送れるのか、ネットシステムの設計や、効率の良い手順・ルール(プロトコル)の研究を始め、現在まで続けてきました。
 インターネットに関しては、もうひとつ、忘れられないエピソードがあります。2001年6月に、南アフリカから皆既日食をネットで同時配信したことです。広島市内の小学校など6拠点と当時の高速回線で結び、各拠点に大型モニターを設置し、6拠点合計で計800名が中継鑑賞に参加しました。最も多い400名以上が集まった小学校ではハイビジョン映像で中継し、太陽が月に隠れる直前と直後に太陽光がリングのようにもれる「ダイヤモンドリング」が見えた時の大歓声は、今も耳に残っています。これも、今までできなかったことをインターネットの技術によって可能にした瞬間ですね。

▲南アフリカの皆既日食を高速回線を使って配信、鑑賞したライブ中継実験の様子。中継直前までパソコンを開けて調整していました。

考える「プロセス」を大切に

 改めて思うのは、中学受験、大学でのプログラミングとの出合い、工学部の助手、インターネットの道、どれもが自分の強い意志で選択したというより、周囲の考えや勧めを素直に受け入れ、歩んできた道だということです。その都度「これは、自分がやるべきことだ」と向き合い、一心に取り組んできました。すると、それを乗り越えた時に、不思議と新たに挑戦すべき対象が現れるのです。受験も就職も、ゴールのようで実は通過点でしかありません。その先には、まだ自分が出合うべき面白いことがあると、ポジティブにとらえて乗り越えることが大切なのだと思います。
 そして、その際は「失敗を恐れない」でください。失敗を避けようと「正解」ばかりを求めると、考えなくなるからです。考えながら取り組む「プロセス」こそが重要であり、考えて乗り越えたからこそ、新たな課題が見えてきます。もし失敗したとしても大丈夫。中高生ならいくらでもやり直せるので、目の前の今やるべきことに、主体的に取り組んでみてください。

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