


日本女子大学は成瀬仁蔵が1901年に創立し、時代に先駆けて女子高等教育の道を切り拓いてきました。NHK連続テレビ小説『あさが来た』の主人公のモデル・広岡浅子が創立に尽力したことでも知られます。2020年に学長に就任した篠原聡子先生は、学部学科の新設や再編など、精力的に改組を進めています。建築家でもあり、集合住宅やシェアハウスなど多くの作品を手掛け、日本建築学会賞やグッドデザイン賞も受賞されています。
【篠原 聡子(しのはら・さとこ)】
1958年生まれ。千葉県出身。
1981年日本女子大学家政学部住居学科卒業。83年同大学大学院家政学研究科住居学専攻修了。83~85年香山アトリエ勤務。86年空間研究所設立。97年日本女子大学家政学部住居学科専任講師、2001年助教授、10年~教授。
14~20年野村不動産ホールディングス株式会社社外取締役。15~19年日本女子大学大学院家政学研究科委員⾧・人間生活学研究科委員⾧。20年日本女子大学学⾧就任。専門は建築設計、住居計画。
生まれは千葉県東金市で、九十九里浜から内陸に少し入った田んぼの中の集落で育ちました。家は明治時代に建てられ、戦前までは農業のかたわら醤油や酒造りもしていた家です。玄関を入ると土間と売り場があり、間取りは襖で仕切られた田の字型。明るい南側が主に床の間や広間などの応接スペースで、北側が納戸や台所などの生活スペースでした。
当時は子ども部屋などはなかったので、私と妹は屋根裏部屋、弟は売り場を自分の居場所にしていました。近所の人が「いるかい?」と言って玄関や勝手口、縁側からも気軽に入ってくる、プライバシーとは無縁の環境でしたね。
私は幼稚園の頃から近所や隣村の遠縁の家を泊まり歩くのが好きで、なかには私のお茶碗と箸を置いてくれている家もありました。自分の家とは違う暮らし方を見るのがおもしろかったのです。そんなふうに地域コミュニティの中で育ったことや、何でも受け入れる自宅のつくりは、私の建築家としての活動に間違いなく影響しています。
祖父母は早くに亡くなったので、わが家は核家族。母が農業をし、父は高校の教員でした。母は厳しくて教育熱心。私たち子どもに「勉強しなさい」と言い続け、押し入れに閉じ込められたことも。反対に父は一緒に押し入れに入ってくれるような、優しくて穏やかな人でした。両親からはたくさんのことを教わり、母に言われた「大きくジャンプしなくてもいいから、背伸びくらいはしなさい」は、私の勉強スタイルのベースになりました。
▲幼少の頃(右端が篠原学長)
小学生の時、課外授業で生き物採集をしたことは今もよく覚えています。先生に言われて学校に空き缶を持って行くと、先生が缶に穴を開けて針金で取っ手をつけてくれました。それを持ってみんなで田んぼに行って魚やドジョウを網ですくったり、ザリガニをひっくり返してお腹を観察したり、先生の説明を聞いたり……。身近だった生き物の世界が一気に広がりました。生態系への関心や環境へのリスペクトにもつながりました。体験を通して子どもたちの興味を駆りたて、発見の喜びを教えてくれる、素晴らしい先生でしたね。
家での勉強は「背伸びくらいしなさい」の母の教えに従い、毎日少し頑張ることを自分に課していました。これくらいなら簡単にできると思ったら、それよりも少しだけ多くやる。そうやって積み重ねていました。好きな科目は社会と算数。社会は「土地や集落がどうやってできたのか」といった歴史に特に興味があり、歴史学者の和歌森太郎さんや網野善彦さんの本も読むようになりました。
高校時代に衝撃を受けたのが、町に住む友達の家に泊まりに行った時のこと。部屋にはカーペットが敷かれ、ベッドが置かれ、ダイニングキッチンなるスペースもありました。「こんな暮らしがあるの!?」と自分の知っている農家のつくりとの違いに驚き、その機能的かつプライバシーの確保された空間をとても羨ましく感じました。
受験勉強を始めたのは、高校2年生の頃です。幼い頃から住居に興味があり、数学や絵を描くことが好きだったので、建築や住居設計の道に進みたいと考えました。家庭科で間取りを描く授業があって、先生から褒められたことも大きかったですね。アメリカのドラマ『奥さまは魔女』の影響を受け、大きな玄関ホールと階段、広々としたリビングダイニングのある洋風の間取りを描きました。
▲若い頃はモダンな家に憧れましたが、後になって自分が育った環境のおもしろさや豊かさに気づきました。
大学は日本女子大学の住居学科へ。希望して入りましたが、勉強は本当に大変でした。課題に追われ、先生もすごく厳しい。楽しかったことと言えば、半年に2回ある大きな課題提出の後の打ち上げです。大学近くに住んでいた私の家にみんなが集まり、ハンバーグやとんかつ、お寿司を作って、とにかく食べる、食べる、食べる! 大学生活は、苦楽を共にした仲間との思い出が大きいですね。
大学の勉強がおもしろいと思えるようになったのは、自分で卒業論文のテーマを考え始めた3年生の終わり頃。高校時代から茶道をしていたので「茶室」をテーマにし、実際に茶室をいくつも見に行きました。文献だけではなく、体験が研究を多面的、立体的にしてくれると考えたからです。今になって思えば、学部時代の苦労は通るべき道だったなと。その苦労があったから、建築がおもしろいと思えるところに行きつけたのだと感じます。
今では考えられませんが、当時は東京で一人暮らしをしている女子学生が大手企業に就職するのは難しい時代でした。後ろ盾がないようなもので、敬遠されたのです。私は就職を諦めて大学院進学を決意。住居学を専攻して好きな研究に励み、充実した2年間を過ごしました。卒業後は、香山アトリエで2年お世話になってから独立。結婚して子どももできたので、自分の会社で働く方が自由が利くと考えました。親も応援してくれて「ダメなら帰ってくれば、お米も味噌もあるから大丈夫」と言ってくれたことが心強かったですね。
建築から教育の世界に入ったのは、急に亡くなった大学の恩師の後任ということで声がかかりました。光栄なことではありましたが、非常勤講師の経験もないので悩みました。ただ、設計の仕事を続けながら新しい世界も見たかったので、人生で最も心の揺れる決断をしました。最初の授業は時間をかけて一生懸命準備をしたつもりでしたが、必死に話し続けたら、90分の授業がわずか30分で終わってしまい、自分でも驚きました(笑)。
本学で住居学科の授業やゼミを担当するようになって30年近くになります。教育現場がおもしろいのは、毎年違う学生と触れ合えること。私にとってはまさにフィールドワークで、いろいろな考え方や価値観に出会えることが醍醐味です。
▲私は些細なことで悩む反面、楽観主義的な資質があるようです。大変だったことはすぐに忘れ、長く引きずることはありません。
▲ブリュッセル自由大学×日本女子大学×フォロン美術館×KKAA(ワークショップの様子)
私の建築のメインフィールドは集合住宅です。そもそも建築というのは屋根や壁を作って“隔てる”ことが得意。その背景には産業革命や戦争で都市部に人が集中し、機能を分け、衛生環境を維持する必要性がありました。しかし行き過ぎた感もあり、私は今それを見直すことをしています。これからは現代の価値観を取り入れながら“つながる”ことが重要になると考えていて、そのひとつがシェアハウスの取り組みです。
学長としては、就任時から本格的に学部学科の再編を進めています。全体像のイメージは、伝統ある家政学部の高い壁を壊し、学科間の垣根を低くして連携しやすくする。これまで家政学部に内包されていた多様な学科を“株分け”し、より専門性を高めて発展させていくのが狙いです。文理横断的な共同研究のクロスサイエンスを後押ししているのも連携強化のためで、建築も教育も「つなぎ直し」が私の一貫したテーマです。
関塾生の皆さんに伝えたいのは、日々努力することの大切さです。その積み重ねがあるからこそ、おもしろいものに出会った時に発見があるし、パワーを発揮できるのです。学生にも「努力しない人には神様はささやきません。だから手を止めないで」とよく言っています。デザインは才能やひらめきと思う人がいるかもしれませんが、土台なくして神様のささやきを受け止めることはできません。
また、子どもは親の言うようには育ちません。親がしたように育ちます。私自身、プライドを持ってひたむきに働く両親の背中から受け取るものがありました。ですから子育てで大事なのは、親が自分の人生をどう生きるかだと思っています。
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