


東京外国語大学は150余年の歴史を誇る国立大学です。3つの学部があり、専攻言語は28。世界80か国と地域から留学生が来ています。春名展生先生は2025年に50歳で学長に就任。国立大学では現在最年少の学長です。社会の変化に合わせた新たな東京外国語大学を目指し、「学部・修士5年制一貫教育」の検討や「大学間連携」の強化などを進めています。普段はTシャツとスニーカー姿で業務に当たり、学生との対話を重視されています。
【春名 展生(はるな・のぶお)】
1975年、大阪府生まれ。学術博士(東京大学)。
1997年東京大学工学部都市工学科卒業。2000年同大学院総合文化研究科国際社会科学専攻修士課程修了、08年博士課程単位取得満期退学。複数の大学での非常勤講師を経て、15年東京外国語大学大学院国際日本学研究院講師。18年准教授、21年同大学国際日本学部学部長補佐、23年副学長、24年教授。25年4月学長に就任。専門は国際政治学、日本政治外交史。
4歳から9歳までアメリカのニューヨークで暮らしていました。東京の通信社で働く父がニューヨーク勤務になり、両親と私と弟の家族4人で移り住んだのです。私が通った国連の学校「*UNIS」には、ナイジェリアやケニア、フィジー、アルメニア……いろいろな国の子どもがいて、最初の先生はガーナ人でした。一人ひとり育った環境も食べるものも違います。ナイジェリア人の友達の家に遊びに行ったら「このお母さんは私のお母さんじゃない」と不思議なことを言われました。日本と違い一夫多妻なのでお母さんが家に複数いるんです。驚くことも多かったですが、UNISが私の世界のすべてだったので“違うこと”を当たり前に受けとめていました。
授業や遊びの共通言語は英語です。言葉は自然に身についたので、苦労した記憶はありません。小説は大学に入るまで、英語で読んでいました。その方が感情を理解しやすかったからです。
UNISはマンハッタンにあります。当時のマンハッタンは治安が非常に悪く、一人で外に行くことは親に禁止されていました。でも、自宅があったルーズベルト島はロープウェイでしか行けない隔離された島なので、子どもが安心して遊べます。アメリカ・インディアンに憧れていた私は、石を削って弓矢や斧をつくったり、弓矢を撃ったりして外で遊び回っていました。勉強はあまりしていません。アメリカは小学3年生の算数でもとても簡単。おそらく、幼いうちはゆっくり教育していくのが“アメリカ流”なのでしょう。
*United Nations International School。通称「ユニス」。
▲7歳の頃、ハロウィンの時の1枚。ズボンのヒラヒラは、アメリカ・インディアンに憧れていた私のために母がつけてくれました。
小学4年生で帰国し、日本の小学校に通いました。苦労したのが日本語です。アメリカにいた時、家族とは日本語で話していましたが、私は英語の方が馴染んでいましたし、漢字も諺もあまり知りません。日直など日本の学校のルールも初めてで、とにかくほかの子の真似をすることから始めました。忘れもしないのが日直になった時のこと。号令の「着席」を聞こえたままに「ちょくせき」と言ってしまい、しばらく「ちょくせき、ちょくせき」とからかわれました。
日本に帰って来て、勉強もスポーツも一気にレベルが上がりました。日本で求められるのは、常に高い完成度です。自由でのびのびしたアメリカと、カッチリした日本。そのギャップは衝撃的でした。友達はできたので、無理に周囲に合わせようとはせず、自分の道を今に至るまで歩んでいます(笑)。
5年生になった時、母に言われて塾に通い始めました。両親は勉強に口うるさいわけではありませんでしたが、私たちを私立に通わせたかったようです。私が入学したのは中高一貫の桐蔭学園。中学3年間の担任は物理の先生で、生徒思いで、私の話をよく聞いてくださいました。おかげで楽しい中学生活が送れ、物理や数学が好きになりました。桐蔭学園は理数科系と英語は期末試験の成績でクラス分けされるシステムで、私はそれに乗って勉強をしました。英語が得意だった分、ほかの科目に時間をたくさん使え、成績は良かったです。ひとつのことに専念できない性格で、野球部の活動にも力を入れました。
▲中学の時の印象深い思い出といえば、卒業式で担任の先生が泣いていたこと。中高一貫校ですから卒業したらお別れ、ではなかったんですが……(笑)。この先生からはいろいろな影響を受けましたね。
東京大学に進んだのは、行きたい学部が定まっていなかったからです。というのも東京大学は、入学時は全員が教養学部で、3年次から学部学科に分かれます。物理や数学が好きだった私は理科Ⅰ類だけ決めて、決断を先延ばしにする作戦にしたのです。
3年次に都市工学科を選択したのは、幼少期の体験から。幼い頃、両親がイエローストーン国立公園などいろいろな場所に連れて行ってくれ、アメリカの大自然を身近に感じて育ちました。そんなことから環境問題や国際関係にずっと関心があり、都市工学を勉強したらおもしろそうだと感じたのです。
私が一意専心な性分でないこともあり、学生によく言うのは、できるだけ多くの選択肢を持っておくといいということ。可能性が広がりますし、逃げ道にもなり得ます。多様な環境は耐性を養い、自分とは違う関心や特技を持つ人への寛容さにもつながるでしょう。とりわけ時代が大きく動いている今は、将来、何が起きるかわかりません。幅広くおもしろがれる人の方が生きやすいと思います。
大学時代で一番印象に残っているのは、ラグビーです。もともと明確な目標がないまま大学に入ったので、何かひとつでも達成感を得たいとラグビー部に入りました。キャンパスがある東京本郷よりも、週に6日通った駒場グラウンドの方が心に残っています。
4年生になると就職活動が始まり、この頃になって初めて自分は何を専門にしたいのかを真剣に考えるようになりました。国と国をつなぐ仕事をしたいと考え、そのために国際関係論を勉強しようと、大学院に進学して国際社会科学を専攻しました。
東京大学大学院の博士課程を満期退学した後は、友人に誘われ、非常勤講師としていくつかの大学で「平和論」の講義をしたり、留学生に英語で日本文化を教えたりしました。そんな中、東京外国語大学が日本史と日本政治を留学生に教える講師を公募していたので応募し、採用に。それが2015年で、同時期に国際日本学部設置に向けた準備も始まりました。当時の私は、毎日、留学生20~30人と一緒で、講義に加え、裁判の傍聴や特別支援学校での交流などにも力を入れました。
その後、本学の大学院に国際日本専攻ができ、2019年に国際日本学部を新設。私は准教授のまま副学長になり、2025年、学長になりました。
今も留学生にはどんな小さなことでも相談してほしいと伝えています。私が帰国時に苦労した原体験があるからです。彼らの将来につながることを共に考えたいと思っています。また、東京外国語大学の学長の仕事は外交に近いものがあります。各国の大使や大臣と接する機会が多く、4月にモンテネグロの大統領が、6月にはスペイン・マドリード州の首相もみえます。大学院時代、国と国をつなぐ仕事に就きたいと思っていましたが、それを学長室で行っている感覚ですね。
私は、学長の任期が終われば教授に戻り、2040年に65歳で定年退職を迎えます。その2040年を見据えて、新しい大学に生まれ変わる準備を進めています。社会の変化に合わせた大学改革です。日本の人口減少は、大学にとっては一見マイナス要素ですが、私は新しい取り組みができ、多様な人を育てられ、もっとおもしろい社会をつくっていける機会と捉えて、悲観はしていません。世界的に見れば人口は増加中で、食糧や資源不足といった深刻な問題を抱えています。そんな時代だからこそ日本は“賢く縮む”様々なモデルケースを生み出していけるわけです。
現在、本学が進めているのは、学部4年と修士2年を5年にまとめる「学部・修士5年制一貫教育」の体制づくりと、大学間連携の強化です。それにより、学生が将来活躍できる場を広げていきたいと考えています。そのためにも普段から学生との対話は大切にしていて、“賢く縮む”というフレーズも実は、都市計画に関する学生の卒業論文のタイトルからもらったもの(笑)。本人の了解を得て使わせてもらっています。学生から学ぶことは本当に多いですよ。
▲学生との壁をつくりたくないとの思いから、学内では比較的ラフな格好をしています。そうすると学生たちは、圧力を感じることなく、私と同じ目線で自由に話ができるでしょう?
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