奈良女子大学は、文理合わせて4つの学部を擁する西日本唯一の国立女子大学。前身の奈良女子高等師範学校が開校した明治の頃から、社会における女性の知的自立に寄与する教育を実践。令和の今日に至るまで時代の変化に柔軟に対応しながら男女参画社会をリードする人材を育成してきました。自然地理学がご専門の高田将志先生は、世界中から人が集まる奈良の地に大きな可能性を感じ、同大学のさらなる発展のために尽力されています。
【高田 将志(たかだ・まさし)】
1959年生まれ。富山県出身。理学修士(東京大学)。
83年3月東京大学理学部地学科卒業。85年東京大学大学院理学系研究科地理学専攻修士課程修了、90年同博士課程単位修得退学。93年東京大学総合研究資料館非常勤研究員。95年奈良女子大学文学部助教授。同年7月より第38次南極地域観測隊員(97年3月まで)。2001年国立極地研究所助教授研究系併任。08年奈良女子大学文学部教授。13年同大学附属中等教育学校長。以降、同大学において共生科学研究センター長、大学院人間文化総合科学研究科長などを歴任。24年奈良女子大学学長就任、現在に至る。専門は自然地理学、地形学。
銀行員だった父の転勤に伴って、小学校を卒業するまでは富山、東京、新潟、栃木と転居し、その後、再び実家がある東京に戻りました。一番長く暮らしたのは新潟市。小学1年から4年半を過ごしたので、日本海沿いの気候や風土、食文化などは今も心に深く残っています。
この頃の楽しい思い出は、家族でのピクニックです。父は典型的な昭和のサラリーマンで多忙でしたが、1週間で唯一の休みだった日曜日も家族との時間を大事にしてくれて、毎週のように母と1歳上の兄と一緒に車でいろいろな場所に出かけました。その時にハンドルを握っていたのは母です。当時は、運転免許を持っている女性はまだまだ珍しい時代でした。
小学生の頃は“自分は転校生”という意識があり、“よそ者”と割り切って友達と過ごしていた気がします。嫌なことがあっても「2~3年辛抱すればまた他へ移れる」と思えば平気でした。それでも、小学6年で東京に戻った時は、地方に慣れていたこともあり、「都会の子どもはすれているなあ」と感じて、クラスメイトにあまり馴染めなかったですね。
中学受験を勧めてくれたのは母でした。私が、地元の公立中学に進むことに乗り気でないとうすうす気づいていたのでしょう。私立への進学という選択肢があることを知り、夏休みにいくつか見学して、武蔵中学校を受験しようと決めました。理由は、自由な校風に惹かれたことと、過去問題を見て受かる可能性を感じたからです。武蔵中学の入試は、知識よりも発想や考え方を問う問題が出題される傾向があり、「これなら突破できそうだ」と。遅まきながら半年間塾に通い、受験勉強に励みました。
入学して最初の中間テストで痛感したのは、小学校の勉強との違いでした。自分なりに対策をし、直前は夜更かしまでして頑張ったものの、結局は自分が納得のいく準備ができないままテストに臨むことに……。その時の理科の問題はよく覚えています。天気図を描く問題で、授業ではラジオの気象通報を聞き、そのデータをもとに描く方法を習ったのですが、実際のテストでは天気概況を示した文章を読んで描かなければならず、唖然としました。
こうした問題に対応できないと点数がとれない――と一念発起し、期末テストに備えようと本屋へ行き、天気図に関する本を買っていろいろ調べたり勉強したりしました。武蔵中学は「自ら調べ 自ら考える」を理念に掲げており、初めての中間テストでその必要性を学びました。
▲中高時代の休み時間はよくサッカーをしていました。当時は海外のサッカー事情を知る手段がほとんどなく、古本屋で買ったイギリスのサッカー雑誌を、辞書を引きながら苦心して読んだ思い出があります。
部活動は、中学・高校の6年間、水泳部に所属しました。野球部や卓球部に仮入部したものの、上下関係が厳しく馴染めないと断念。その後、たまたま水泳部の見学に行くと、部員たちは速さを競う泳ぎはせず、水中でゆらゆらと変わった動き方をしていました。それが「水球」との初めての出会い。興味を惹かれて即、入部を決めました。
中高一貫校の武蔵中学は進学校でしたが、周りには大学受験だけに捉われない、意識の高い仲間がたくさんいました。私はというと、勉学に励む傍ら、高校3年の9月初旬まで水球にもひたむきに打ち込む日々。東京大学を志望したのは、部活の先輩が合格したのを見て「あの人が受かるのなら自分も行ける」と安直に考えたからでした。しかし現実はそれほど甘くなく、1年間の浪人生活を送ることに。
理科二類を志望したのは、中1の地理の先生の影響が大きかったように思います。長期の休みの度に外国や国内をあちこち旅して回り、授業では教科書そっちのけで旅の思い出をおもしろおかしく話してくださいました。「いろいろな場所に行って暮らせたら楽しいだろうな」。そんな憧れの気持ちで、わくわくしながら先生の話を聞いていたことを覚えています。地理に惹かれた理由には、幼少期のピクニックも間違いなく関係しているでしょう。家族と一緒に自然の中で楽しく過ごした時間は、私の生き方を決定づけた原体験ともいえます。
大学では2年生の秋に理学部地学科への進路が決まり、3年から本格的に自然史の研究を始めました。専門は地形学で、活断層や平野を研究する学生が多い中、私は「山」の成り立ちに興味を持ちました。大学院時代は、修士論文を仕上げるために*1 三国山脈へ。群馬と新潟の県境沿いに連なる平標山~谷川岳~巻機山を縦走しながら、ハードなフィールドワークをこなしました。その後、研究のターゲットは国内だけでなく海外にも広がり、様々な土地で調査したいと思っていたところ、なんと*2国立極地研究所から「南極の調査に同行しませんか」とお誘いが。「こんな機会は二度とない!」と当然、私は行く気満々。ところが、博士課程の指導教員に快く背中を押してもらえず、やむなく断念することに……。そして数年後、非常勤の研究職などを経て正式に奈良女子大学への着任が決まると、「もうしがらみはないはず」と再び南極に行くオファーをいただいたのです。
当時、調査員として南極に行くには、国家公務員しか許可が下りないという時代でした。民間企業に勤める人が行く場合は、一度退職し国家公務員になる必要があったのです。私は国立大学の研究者という立場でしたので、そうした制約もなく、晴れて第38次南極地域観測隊の夏隊に加わることができました。滞在したのは、昭和基地から500㎞ほど離れたアムンゼン湾沿岸地域です。愛らしいエンペラーペンギンたちに癒やされながら約2カ月半、湖底の地層に含まれる珪藻や泥を分析し、自然史の観点から南極の氷河の拡大や縮小の歴史を明らかにする調査を行いました。
*1 群馬県と新潟県の県境にある山脈。
*2 極域での観測を基盤に総合研究を進める中核機関。南極圏と北極圏に観測基地がある。
▲フィールドワークでは、これまでに黒部川最上流部、チベット高原、ブータン、カナリア諸島などの山々に。残雪の登山道から滑落して死の恐怖を身近に感じたこともありました。
奈良女子大学に着任して30年になります。今改めて思うのは、多様性がキーワードの時代だからこそ、女子大学の存在意義はますます高まっているということです。社会では男女共同参画が促されていますが、残念ながら日本では男女格差がまだまだ大きいのです。そうした中で本学は、前身校の奈良女子高等師範学校が開かれた明治時代から、まずは文学系と家政学系の分野を中心として優秀な人材を育成してきました。その後、1953年に理学部、近年では2022年に工学部を開設。現在では文理両分野で時代が求める社会をリードする女性人材を輩出しています。今後は大学院の教育にさらに力を入れ、特にドクターコース(博士後期課程)に進む学生を増やしたいと考えています。博士の学位を取得すれば、民間企業に就く際にも女性のリーダー候補として迎えられます。そうした人たちが牽引し、社会が変わっていくことにつながればと思います。
その視点に立てば、これから人生を歩んでいく本学の学生、勉強を頑張っている中高生の皆さんは、可能性に満ちあふれているといえます。10代の皆さんは時間がたっぷりありますから、好きなこと、やりたいことにどんどん挑戦しましょう。60代半ばの私からすると本当に羨ましい(笑)。何かにトライする時は、それで一生が決まるなどと考える必要はありません。今学んでいることをベースにして何をするか、自分に何ができるのか、ゆっくりと考えてみてください。その道を探りながら、今やるべきことを一生懸命やる、とにかく全力でやることが大事です。もし思い通りに行かなかったとしても、やり直しはいくらでもできますよ。
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