2022年10月号 わたしの勉学時代 国際教養大学 学長 モンテ・カセム先生に聞く

国際教養大学は、大学名の通り「国際教養」を教学理念に掲げる秋田県の公立大学法人です。社会・人文・自然科学の分野で均衡のとれた知力と幅広い視野を養い、国境、文化、言語を越えて活躍する次世代のリーダーを育成しています。インド洋の島国、スリランカ出身のモンテ・カセム先生が留学生として来日されたのは20代の頃。興味関心の赴くままに勉学と研究に勤しみ、専門である建築工学の枠に留まらないキャリアを歩まれてきました。

【モンテ・カセム(Monte CASSIM)】
1947年生まれ。スリランカ民主社会主義共和国コロンボ出身。工学博士(東京大学)。
70年スリランカ大学自然科学部建築学科卒業。74~81年一般財団法人日本地域開発センター研究員。76年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了後、マレーシアサインズ大学講師、三井建設株式会社設計部・建築士などを経て、82年に東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。85~94年国際連合地域開発センター(UNCRD)主任研究員。94年以降、立命館大学教授、同アジア太平洋大学学長、副総長・理事などを歴任。2014年国際教養大学理事、21年6月~現在同大学理事長・学長。スリランカ首相上席補佐官なども務める。

大家族の精神が日常に

 私の故郷であるスリランカのコロンボをご存じの人は、きっと都会をイメージされることでしょう。今でこそスリランカで一番の大都市ですが、私が子どもの頃はまだまだ素朴な地域で、たくさんの緑がありました。当時、信号機が初めて導入された時のことは今でもよく覚えています。物珍しさで地方から多くの人が見に来て、交通渋滞を解消するための信号機がかえって渋滞を引き起こすという矛盾した事態が起きていました(笑)。
 私は一人っ子で両親と一緒に暮らしていました。核家族でしたが、スリランカは伝統的な大家族の精神が残っていて、母方の兄弟姉妹やいとこたちと過ごす日々が多く、年上のいとこたちが私の面倒をよく見てくれていました。
 父は土木技師で、戦時中は軍隊に入って橋を造っていたそうですが、戦後は学校建設の公共事業に携わっていました。母は専業主婦で、父は私が大学を卒業する間際に亡くなったため、その後は基本的に一人で生活していました。気丈でたくましい女性でしたよ。私の入学に合わせて、学校のすぐ近くに引っ越したので、比較的教育熱心な家庭だったのかもしれません。

勉強も遊びもスポーツも!

 スリランカの学校教育は6・4・2・2年制です。日本の小学校より1年早く5歳で入学し、初等教育6年、中等教育(前期)4年までが義務教育です。この期間は「よく遊び、よく勉強し、よく疲れて、よく寝た」という毎日でした。私が通っていた学校は伝統的な進学校で、公立校ながらリベラルな教育方針があり、勉強も遊びもスポーツも、すべてにおいて熱心に取り組む校風だったのです。対話力やコミュニケーション力を鍛えるディベートの授業もあり、切磋琢磨しながら成長できる環境でした。
 中等教育(後期)2年は、Oレベルという全国試験を受けるための勉強をする期間です。この試験が日本の高校入試のようなもので、合格しないと進学できません。合格後は、さらに2年、Aレベル試験(大学入試)のための勉強をします。当時スリランカには国立大学が2つしかなく、狭き門ではあったのですが、通っていた学校の環境から、自然と進学を志していました。好きだったのは理数系の科目で、特に生物に興味がありました。
 母国語のシンハラ語とタミル語に加えて英語のクラスがあり、得意な言語で授業を受けることができます。私は14歳まで母国語のクラスにいたのですが、当時、理数系の教材はほとんど英語だったので、Oレベル試験の勉強を始める15歳からは英語のクラスで学びました。

建築学科に憧れて移籍

 大学は、Aレベル試験の結果で進学できる学部が決まります。医学生物系が最も学力が必要なのですが、医学に必要な点数には届かず、生物系、自然科学分野の微生物学科に入ることになりました。
 しかし、入学してみると、新設された建築学科に憧れを感じました。学問以前に、建築学科に所属する学生は男性も女性も魅力的に映り、白衣を着て微生物の研究をするよりもかっこよく見えたのです(笑)。移籍を申し出ると、微生物学科の先生に「なぜ華々しい将来が待っている微生物学科から離れようとするんだ!」とすごい剣幕で怒られました。移籍するには再試験が必要で、決して易しいものではありません。悩みもしましたが、建築学科への憧れが勝り、試験も無事に通ることができました。
 大学を卒業する時、周囲に「大学院に行かないと一人前になれない」と言われたのですが、私にはその気がなく、民間の建築事務所に就職。そこで1年勤め、2年目からは国立エンジニアリング公団で建築士として働きました。

▲高校~大学の頃はアルバイトもしました。親戚に頼まれて、結婚式で親族が揃えて着る伝統衣装のサリーのデザインを手で描いていたのですが、絵が好きだったのでとても楽しかったです。

母に背中を押されて日本へ

 仕事が楽しく、生活に満足していたので、大学院に進学するつもりは全くありませんでした。ところが、母に「若い時に海外に行かなきゃ。私は年金で一人でも生活できるから、あなたは家を出なさい」と言われたのです。その言葉に背中を押され、様々な奨学金に応募して、最初に通った日本に行くことが決まりました。
 もとから日本に興味があったわけではなかったので、来日当初は日本語の習得に苦労しましたね。大阪外国語大学で日本語を勉強したのですが、教わった言葉を寮の近所の人に話しても通じないし、言っていることもさっぱりわかりませんでした。地元の人が話す河内弁がなかなか理解できなかったのです。ですが、人情深い土地で、言葉の壁を越えてすぐに仲良くなれました。
 東京大学大学院に進み、修士課程を終えた後は帰国するつもりでした。ですから、指導教官の伊藤滋先生に博士課程を勧められて戸惑っていたら「日本が嫌だったら、アメリカに行きなさい」と言われました。当時の私はアメリカに良い印象がなく、「アメリカに行くくらいならアジアに行きます」と言ったら、マレーシアに大学講師として行くことになりました。行ってみると楽しく、様々なことに興味がわいてきて、結局、東京大学に戻って博士課程を修了しました。その後も、有り難いことに、国連機関や立命館大学などから声をかけてもらえて、今に至っています。

▲専門用語を理解するのも大変でしたが、情報が集中している図や表から学んでいました。また、旅行が好きで、日本でも様々な地域を訪れたので、地名の看板などで漢字の読み方を覚えたことも。

自分の内発的な声を大切に

 私はスリランカにいた時も、日本でキャリアを積む時も、常に「今、これをやらなきゃ」と内発的に感じたことに全力で取り組みました。スリランカで建築士をしていた時は、設計やデザインをする楽しさを感じつつも、裕福な経営者など限られた仕事相手しかいないとわかると一般の人のために何かしたいという気持ちになりました。日本でも都市工学や地域開発の仕事をしていると自然界の破壊に寂しさを感じ、今の自分に何ができるかを考えました。その繰り返しで、興味がわいた環境・生命科学を次々と勉強していきました。もちろん、特定の分野を深く学ぶことも必要ですが、同時に全体を俯瞰的に見ながらそれぞれの因果関係を確かめることも重要で、常にその両方を意識していました。
 現在、国際教養大学の学長として、これまでの経験を活かして学生が本当に楽しいと感じられるキャンパスづくりに尽力しています。国内外の人が当たり前に母国語以外の言葉でコミュニケーションをとれる環境を重視し、学生たちは「協働する喜び」と「一生懸命学ぶ楽しさ」を実感しながら友情と社交性を育んでいます。そして、学んだことを他者、社会の役に立ててこそ得られる達成感を味わってほしいです。
 関塾で勉強を頑張っている皆さんにアドバイスするなら、自分の将来に向けて「何をやってもいい」「何から始めてもいい」ということでしょうか。私は10代の時に微生物に興味を持ち、そこから建築に移りました。そして、勉強する時は必ず集中していました。集中してやると時間効率が良くなるので、遊ぶ時間も、趣味の時間も確保できます。そうしてメリハリをつけると、自分の生活や人生がより豊かになりますよ。

▲1990年頃の家族写真です。日本でイギリス人の女性と出会って結婚しました。子どもを便利な生活環境だけで育てたくなかったので、よくキャンプなどに連れて行っていましたね。

関塾

タイムス編集部

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