2022年6月号 わたしの勉学時代 島根大学長 服部 泰直先生に聞く

島根大学は、松江キャンパスに法文、教育、人間科学、総合理工、生物資源科学の5学部、出雲キャンパスに医学部を擁する国立大学法人。在学生の約8割が県外出身者で、地元地域や国内のみならず、世界も視野に入れて未来に貢献できる人材を育成しています。服部泰直先生が島根大学に着任されたのは30年前。位相数学がご専門で、中学の頃から数学は自分に合っていると感じていたのだとか。高校時代はサッカー部で活躍されたそうです。

【服部 泰直(はっとり・やすなお)】
1956年生まれ。長野県松本市出身。理学博士(筑波大学)。
78年3月筑波大学第一学群自然学類卒業、80年大阪教育大学大学院教育学研究科修士課程修了。81年大阪教育大学助手。87年山口大学講師、89年より助教授。93年島根大学理学部助教授、95年より教授。2004年国立大学法人島根大学総合理工学部教授、11年同大学総合理工学部長(兼務12年3月まで)、12年同大学大学院総合理工学研究科教授、総合理工学研究科長(兼務15年3月まで)、15年4月より現職。専門は位相数学。 

毎日外で友達と遊んでいた

 長野県の松本駅から東に30㎞ほど行くと、避暑地としても知られる美ヶ原高原があります。その西麓にある里山辺という町が私のふるさとです。両親、兄、姉と私の5人家族で、幼少期の思い出はおぼろげですが、小学生の時は学校から帰るとすぐに外へ飛び出し、友達と空き地で野球などをして遊んでいました。どちらかというと家にこもって本を読むより、野原で走り回って遊ぶことが好きでしたね。
 小学校の頃の勉強というと、宿題以外はあまりやらなかったような……。両親ともに口うるさく言うタイプではなかったのですが、一度だけ、夏休みの宿題を中途半端なまま放っていたことがあります。この時はさすがに母から「早くやりなさい!」と雷を落とされました。勉強のことで叱られたのはこの時くらいですね。もしかすると、言いたいことはいろいろとあったかもしれませんが、両親は郵便局に勤めていて共働きだったので、子どもに構っている時間はなかったのでしょう。それは兄や姉に対しても同じで、いつも自由に遊ばせてくれたおかげで、毎日のびのびと楽しく過ごしていました。

数学の問題は毎日コツコツ

 大学で教育に携わる者としてあまり大きな声では言えませんが、小学校の頃も中学に入ってからも、自主的な勉強はほとんどしなかったというのが正直なところです。とはいえ、授業は集中して受ける、先生に言われたことはきちんとやる、という基本的なことはしっかりおさえていました。
 鮮明に憶えているのは、中学入学後、数学の先生から「毎日1問でも2問でもいいから、問題を解いてノートを提出しなさい」と言われたことです。それを苦にすることなくコツコツとやっていました。そのおかげかどうかはわかりませんが、中学の時は英語や国語より数学や理科が自分に合っていると感じていました。
 高校は地元の公立、長野県松本県ケ丘高校に進学しました。田舎だったこともあり、私立に行く選択肢はなく、同じ中学の同級生がほぼそのまま高校に上がるという感じでしたね。高校でも理数科目が好きで、数学は中学時代に毎日問題を解く習慣がついていたので、定期テスト前に慌てるということはなかったです。ですが、英語と国語の成績は高校に入るとますます低空飛行に……。恥ずかしい話ですが、今もこの2教科は勉強のやり方がわかりません(笑)。

▲中学生の頃の1枚。

高校時代はサッカーに熱中

 高校ではサッカー部に入り、国体や高校総体にも出場しました。輝かしい実績を誇る強豪校で練習漬けの毎日でした。夜8時に帰宅し、夕食をとってお風呂に入ると、疲れ果ててそのまま湯船で寝てしまうことも度々。宿題や予習は、朝4時に起きて登校するまでの時間に集中してやりました。
 「将来は高校の先生になってサッカー部を全国大会に連れて行く!」。これが当時の私の夢。進学先は筑波大学に決めました。長野県の高校には、筑波大学の前身校である東京教育大学出身の先生が多かったからです。しかし、サッカー三昧だったため受験勉強を始めたのは高3の部活引退後。しかも11月になってから。「服部はたぶん浪人するだろうけど、どこを受けておく?」。進路を決める時の先生との面談はこんな調子で、わずか3分ほどで終わりました。
 しかし奇跡は起きるものです。筑波大学に現役で合格できました。なぜこんな幸運が訪れたのかを自分なりに分析した結果、優秀な受験生が試験を回避したからではないかという結論に思い至りました。当時はまだ学生運動の名残があり、ヘルメットを被った大学生が会場に大勢いたんです。そうした不穏な空気に圧倒され、受験を見送った受験生もいただろうと。そんな状況の中、私は周りには目もくれず、「合格して高校の先生になる!」という、ただその一念で試験に臨みました。イレギュラーな時代の大学入試でしたが、そういう時には、普通では考えられないような想定外のできごとが起こるものですね(笑)。

▲高校時代のサッカー部の練習は本当にハードでした。徹底的に鍛えられたことで、限られた時間を有効に使い集中して勉強する癖がつきました。

概念の“緩さ”が自分に合った

 筑波大学では第一学群に所属し、数学を専攻しました。高校の先生になる夢を叶えるため、数学を改めてじっくり勉強しようと考えたからです。しかし当初は、勉強に集中できるような環境ではありませんでした。私は筑波大学の1期生で、入学した時はオイルショック(石油危機)の影響もあったのでしょうが、教育棟がまだできていませんでした。そのため、1年次の5月の連休には東京代々木のオリンピックセンターで合宿をして授業を受け、その後、筑波に学生寮ができ、そこに住むようになってからも、道路整備が遅れていたので“陸の孤島”状態でした。ですが、そんな環境だったからこそ、医学や体育など他の専攻の学生たちと仲良くなれて、交流の輪を広げることができました。
 学部卒業後は大阪教育大学大学院に進学しました。ずっと向き合ってきた数学をさらに究めたいと思ったからです。基礎数学の分野は、代数、幾何、解析に分かれますが、私が選んだのは幾何学の位相数学。その魅力をひと言で言うと、概念が“緩い”ところでしょうか。代数はきっちりしていて、解析はとても細かい計算が必要です。それに比べると幾何には多少の緩さがあり、勉強しているとスーッと頭に入ってきて、私に向いているなと思いました。

第1次は1973年、第2次は1979年に発生。産油国の原油生産の削減と石油価格の高騰によって世界経済が大混乱に陥り、日本経済も深刻なダメージを受けた。

今やるべきことを全力で

 大学院修了後は、結局高校の先生にはならず、大阪教育大学で助手になり、そのまま大学教員の道に進みました。山口大学で7年ほど教鞭を執ったのち島根大学に着任。島根での暮らしはもう30年になります。気候風土も山陰の文化も肌に合っていると感じています。
 島根大学は地方の国立大学ですが、県外出身者が在学生のおよそ8割を占めています。このうち、卒業後にそのまま島根で就職する学生は3割程度です。学長としての私の務めは、島根大学が島根県に存在する意義を明確にし、各分野の教育・研究を通じて地域を活性化させ、地元の人にとっても在学生にとっても、より魅力ある大学にすることです。
 県の産業としては大規模ではないものの、特殊鋼の分野で大手金属メーカーが地元に貢献しています。本学では現在、理系の新しい学部「材料エネルギー学部(仮称)」の設置を構想中で、2023年春の開設を予定しています。この構想は、県内だけでなく県外の人も惹きつける魅力があると思いますので、多くの人を島根に呼び込むきっかけになるものと期待しています。
 関塾生の皆さんにエールを込めてアドバイスさせていただくなら、今、自分が置かれている状況の中で、最善を尽くすことが大事だと言いたいですね。私は計画を立てることがとても苦手です。だから
なおのこと、その時その時に自分は何をすべきなのかを真剣に考え、全力で向き合いました。関塾の皆さんも、目の前のことに集中して取り組み、その経験を一つひとつ積み重ねて成長し、自分の土台をしっかりと築いてください。

▲島根大学の教授時代に、アメリカ・アラバマ州のオーバン大学に研究留学しました。留学先の恩師は合理的な人で、講義時間は日本の半分以下の50分。何事も集中してやることが大事だと教わりました。

関塾

タイムス編集部

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