2021年6月号 わたしの勉学時代 北海道大学総長 寳金 清博先生に聞く

北海道大学は、1876年に日本最初期の近代的大学として設立された札幌農学校が起源。その初代教頭であったウィリアム・スミス・クラーク博士が残した“Lofty ambition”(高邁なる大志)の精神を受け継ぐ、「フロンティア精神」「国際性の涵養」「全人教育」「実学の重視」の4つを基本理念に掲げています。まもなく創立150年を迎える同大学の歴代総長の中で初めて、臨床医から総長に就任された寳金清博先生にお話を伺いました。

【寳金 清博(ほうきん・きよひろ)】
1954年生まれ。北海道札幌市出身。医学博士(北海道大学)。
79年北海道大学医学部医学科卒業。同大学医学部附属病院他で勤務後、86年よりカリフォルニア大学デービス校客員研究員(2年2か月)。帰国後、北海道大学医学部附属病院助手、柏葉脳神経外科病院医師、北海道大学医学部助手、同大学医学部附属病院講師を経て、2000年同大学大学院医学研究科助教授。01年より札幌医科大学医学部教授。10年北海道大学大学院医学研究科教授に。同病院長・副理事、副学長、社会医療法人社団カレスサッポロ時計台記念病院院長、北海道大学大学院保健科学研究院特任教授などを歴任し、20年10月より現職。専門は脳神経外科学。

“弱い人を助けよ”という教え

 生まれたのは札幌市です。父は早く亡くなり、私は一人っ子なので母と2人暮らしでした。母から勉強しなさいと言われた記憶はありませんが、躾は厳しかった。特に、弱い人や困っている人を助けて寄り添うようにと厳しく言われました。小学1年生の時、近所に体の弱い同級生が住んでいて、母は私に「毎日迎えに行ってあげなさい」と。わが家も決して裕福ではありませんでしたが、経済的にも恵まれなかったその子を助けてあげなさいというのです。母は、困っている人がいたらどんな手間も惜しまず助けようとする人で、この教えはずっと大切にしています。
 母校の札幌市立桑園小学校は勉強に対する意識が高い学校でした。国鉄(現 JR)に勤める人の子どもが何人も通っていて、国鉄職員には教育熱心な人が多かったですね。子どもの数が多い時代で、約50人のクラスが1学年6クラスありました。友達がたくさんいたので、放課後は15~16人ほどで遊び回っていました。雪がない時期は草野球、冬はスキーですね。歩いて行ける場所に小さいスキー場があり、冬の間はここでよくスキーをしました。
 また、小学2年生頃から中学生になるまで、家の近くの円山という山にしょっちゅう登りに行っていました。子どもの足で登るには大変な山でしたが、頂上に立つと石狩平野が見渡せたのです。この時に見た光景は今も目に焼きついています。子どもながらに世界の広さを感じ、いつかいろいろなところに行ってみたいなぁと思いを巡らせていました。向上心のようなものが芽生えた体験ですね。

▲小学1年生の頃、やんちゃをして足を骨折した時は母にこっぴどく叱られました。毎日おんぶして病院に連れて行ってくれた時の背中のぬくもりを鮮明に覚えています。「ケガをしたら母に大変な思いをさせてしまう。無茶をしてはいけない」と思い知りましたね。

同級生のお父さんから影響を

 最初に影響を受けたのは、小学校の同級生のお父さんです。仲良しだった女子のお父さんが消化器系の外科医で、日曜になると家によく遊びに行きました。会いたいのは同級生ではなく、その子のお父さん(笑)。男の子がいなかったからか私を実の息子のように可愛がってくれ、医学や植物学、歴史などいろいろな話をしてくださいました。大人が小学生を相手に講義のようなことをするなんて、ちょっと考えられませんよね。一度、母に何も言わず遅くまでこの家にいたものですから、心配して捜索騒ぎになったことがあります。幸い、大ごとにはなりませんでしたが。
 医者になりたいと思ったのは、このお父さんの影響もありますが、私が中学生だった1968年、札幌医科大学で行われた心臓移植手術がきっかけです。日本初の移植手術で、執刀したのは当時、胸部外科の教授だった和田寿郎先生。札幌医科大学の近くに住んでいたので、和田先生に会えるはずもないのに少しでも近づきたい一心で、大学まで行った記憶があります。それほど私にとっては衝撃的なできごとでした。

重圧に耐え北海道大学に合格

 高校は北海道札幌南高校へ。受験勉強は受験前に集中してやったわけではなく、毎日コツコツと取り組んでいました。勉強は嫌いではなかったので怠けず地道に続けて、まあまあ良い成績がとれていましたね。
 勉強には2つのことが必要だと思います。1つは毎日コツコツと取り組む忍耐力、もう1つは、誰にも負けたくないという負けん気です。高校の時、全国模試で良い成績がとれるととても励みになりましたが、一方で、成績を抜かれると悔しくて、その悔しさが自分を奮い立たせてくれました。高校の同級生にも競うべき人がたくさんいて、皆で切磋琢磨して勉強できたことは恵まれていましたね。40人ほどのクラスメイトの約半数が国公立大学に進学していて、その存在が大いに刺激になりました。
 志望校は北海道大学医学部と決め、受験に臨みました。経済的な理由から絶対に浪人できなかったので、その重圧たるや相当なもので、今でも夢に見るほどです。何度も見る夢は、受験の前日に全く勉強していないことに気づいて茫然となり、焦れば焦るほど思考は停止、そんな中、受験の朝を迎えジタバタと苦しんでいる――こんな内容です。これまでの人生で、運転免許の仮免許試験以外は落ちたことがないのですが、それでも試験と聞くとこの時の不安な気持ちがよみがえり、冷や汗が出ます。合格した時は本当に嬉しかったです。

2人の恩師から学んだこと

 医者になって初めて指導してくださったのは、*1上山博康先生です。研修医の頃は、手術や治療の話を朝5時頃まで延々と聞くという過酷な毎日でした。朝になると、先生は疲れたと言って帰られるのですが、「君たちはまだ仕事をしていなさい」と。先生から教わったのは、とにかく手を抜くなということ。手早くやろう、早く終わらせようと考えては駄目、一切手を抜かず、患者さんのために全力を尽くしなさい、という姿勢です。医者としての心構えなど、厳しくも労を惜しまず、多くのことを教えてくださいました。
 もう1人恩師と言えるのは、31~32歳頃、カリフォルニア大学デービス校で指導を受けた*2中田力先生です。4歳しか違わないので、恩師というより兄のような存在でした。よく覚えているのは、研究データはどんな結果が出てもそのまま取りなさい、という助言です。当たり前のことなのですが、結果にばらつきが出ると、つい自分に都合のいいデータを取ってしまいがちです。それが不正につながったりもするのですが、先生は常に結果をありのまま見ることの重要性を主張されていました。研究に対して真摯に向き合うことの大切さを教えてくれた先生ですね。

*11948年~。札幌禎心会病院脳疾患研究所所長。脳動脈瘤手術の第一人者。
*21950~2018年。東京大学医学部卒業後、渡米。臨床医、脳科学者として国内外で活躍。

▲中田先生とは兄弟げんかのようによく議論しました。ひと言ふた言反論すると“百倍返し”され、こてんぱんにやり込められるのですが(笑)、おかげで研究に対する厳しさを学ぶことができました。

「光」は「北」から、「北」から「世界」へ

 学長として打ち出したテーマは、“「光」は「北」から、 「北」から「世界」へ”です。「北」は、北海道のように気候風土が厳しいことを意味します。私は、優れた研究や歴史的な発見というものは、厳しい環境の中でこそ生み出されると信じています。名のある功績を残した人は、逆境を乗り越えて偉業を成し遂げた人が多いですね。恵まれた環境の中では、競争心や悔しさは湧いてきません。逆境に身をおいて初めて工夫が生まれ、自己研鑽に励み、自ら道を切り拓こうとするフロンティア精神が芽生えると思うのです。
 「北の地」から「知の光」を世界に発信するというこのテーマは、北海道大学の前身である札幌農学校の初代教頭(事実上の校長)クラーク博士が残した有名な言葉「Boys, be ambitious」の精神とも一致します。私はこれに続けて、「otherwise you can not survive」というフレーズを独自に付け加えました。「大志を持ちましょう、そうでなければ生き残れませんよ」という意味で、これは現代を生きる私たちに絶対的に必要なものではないでしょうか。
 未来の世界と日本を担う皆さんは、背負うものがますます増えていくでしょう。現実は厳しいかもしれませんが、それをしっかりと受け止め、負けん気で立ち向かってください。お話ししたように、厳しい状況であればあるほど、良いものが生まれるものです。困難な状況を乗り越えるには、物事の一面だけを学ぶのでは不充分で、様々な分野からいろいろな教養を広く身につけることが必要です。自分の得意分野を専門としながら、それを活かす応用力を養うために、広い視野を持って学んでほしいですね。

関塾

タイムス編集部

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