2021年5月号 わたしの勉学時代 埼玉大学 学長 坂井 貴文先生に聞く

埼玉大学は1949年、新制国立大学として旧制浦和高等学校、埼玉師範学校、埼玉青年師範学校が統合し創立されました。現在、5学部(教養・経済・教育・理・工)と人文社会科学、教育学、理工学の3研究科を擁しています。創立以来、連綿と受け継がれるのは、教育・研究・社会貢献への真摯な取り組み。「これらをさらに充実させ、地域活性化の中核拠点としての役割を果たしていきたい」とおっしゃる坂井貴文先生にお話を伺いました。

【坂井 貴文(さかい・たかふみ)】
1954年生まれ。東京都練馬区出身。医学博士(群馬大学)。
77年群馬大学教育学部卒業、78年同大学教育専攻科修了後、埼玉県公立高等学校教諭に(88年まで)。88年より94年まで群馬大学内分泌研究所技術員、群馬大学文部技官などを務め、94年より埼玉大学理学部講師、95年助教授。98年米国国立衛生研究所国立がん研究所客員研究員。2003年より埼玉大学理学部教授。同大学理学部長、同大学大学院理工学研究科長を歴任し20年4月より現職。専門は分子内分泌学。

のびのび育った子ども時代

 生まれたのは東京・練馬です。小学2年の1学期が終わってから埼玉へ移り、1年ほど過ごして群馬に引っ越しました。両親と弟、私の4人家族です。父は鶏のオスとメスを見分ける鑑別士で、アメリカやヨーロッパにも仕事をしに行っていました。そのため家にはあまりおらず、母が1人で茶舗を切り盛りしていました。
 父も母も教育には無頓着で、「勉強しなさい」とは言われませんでした。こんな時、ほとんどの方は「親から言われなくても自分で勉強しました」とおっしゃいますが、私は本当にしなかったですね(笑)。
 埼玉で暮らした小さな村には“鎮守様”と呼ばれる神社があり、学校へは小学生から中学生までがいったんここに集まり、集団登校をしていました。朝、皆が揃うとまずやったのが野球です。時間を忘れて熱中してしまうので、一番年下だった私は近くの家のテレビに映る時刻を見て、それを皆に知らせる役目でした。上は中学生から下は小学校の低学年まで、年齢の垣根を越えて皆が一緒に遊ぶ、そんなコミュニティがありましたね。
 小学校の時は言うことを聞かず、先生に目をつけられるいわゆる“悪ガキ”でしたが、母は私の好きなようにさせてくれました。振り返ると、母の細かいことにこだわらない寛大さに随分助けられたと思います。数々の失敗を容認してくれたおかげで、子ども時代を自由にのびのびと過ごすことができました。

勉強の楽しさに気づく

 中学に入ると友達の影響で少しは勉強に身を入れるようになりました。一緒に登校する友達が真面目に勉強しているのを見たりお互いに問題を出し合ったりしているうちに、勉強のおもしろさがわかってきたのです。やって良かったと思うのは、授業後に教わった内容についていろいろ考えたことです。なぜそうなるのかよく考え、「あっ、そうか!」という“気づき”にたどり着くと知識が自分の中に定着します。教わったことを確実に自分のものにするためには、ストーリーをつくって自分の中に取り込む作業が必要なのだとわかりました。
 ようやく理解する楽しさに目覚め、数学と理科が好きになりました。理科の授業が特におもしろくて、自分で考えさせるように教えてくださった先生の授業がとても印象に残っています。

生物部の忘れられない思い出

 高校は男子校に入り生物部に所属しました。3年生の時にヘビを捕まえに行ったことは今も生物部の語り草です。近くの女子校の生物部から「実験に使うヘビを捕まえてくれませんか?」とのお願いが。部員は皆舞い上がって喜んで捕まえに行きました。十数匹捕まえて水槽に入れたところ、隅のところでかたまって団子状態に……。あまりに恐ろしくて近寄ることすらできなくなってしまいました。そこに女子校の生徒が来て、今度は「ヘビを解剖して見せて」と。誰もしたことがなかったのですが、女子生徒に頼まれると断れません(笑)。なんとか試みようとしたものの、団子状態のヘビを水槽から出すのにも悪戦苦闘。後で調べてみたら、解剖しようとしてメスを入れたのがヤマカガシという猛毒を持つヘビだったとわかり、ゾッとしました。
 中学生の頃までは医者になりたいと考えていました。近所に住んでいた女の子がきっかけです。先天性の心臓疾患があったようで唇はいつも紫色でした。しかし、どんな事情があったのか充分な治療を受けられないまま小学生くらいの時に亡くなったと聞きました。当時はこのように医療から取り残された人がかなりいたのです。医者になってそういう人を救いたいと思ったのですが、経済的な理由などから医者になるのは断念。教えることが好きだったので高校の教員を目指すことにしました。

▲歯科医師の叔父から「鶏口となるも牛後となるなかれ」と強く言われ、叔父の出身校であった地元の高校へ進学しました。ここでは勉強だけでなく、好きなことをのびのびとできたので、助言通りにして良かったと思っています。

高校の教員から研究者へ

 埼玉県の教員採用試験に受かり、川口市にあった市立高校の定時制で物理を教えました。川口市は鋳物産業が盛んで、当時は集団就職で地方から出て来た人が鋳物工場でたくさん働いていました。ところが海外との競争で徐々に衰退していき、親御さんの雇用が不安定になるなど、様々な事情で定時制に通ってきている生徒がいました。昼間働いて、夜間高校へ通うのは本当に大変で、なかなか学校へ来られない生徒もいましたが、卒業後に大学へ進学するなど、がんばっている生徒もたくさんいました。この高校で3年、その後、埼玉県熊谷市の公立高校で7年教えました。
 教員の仕事に充実感を覚える一方、もう少し別の手ごたえがほしいとも感じていました。がんばったことが積み上がっていき、確かな成果として実感できる仕事はないかと。そこで、群馬大学内分泌研究所に所属していた先輩に「生物学の研究がしたい」と相談したところ、研究生として迎えてもらえることに。この頃の生活は、日中は高校で教え、柔道部の指導をし、その後、群馬大学がある前橋市へ移動。大学に着くのは夜7時頃でした。それから深夜1~2時まで研究に没頭。帰宅して睡眠をとり翌朝また高校へ……。年中寝不足でしたが、研究がおもしろかったので続けることができました。
 研究をすると自然界の秘密を垣間見たような感覚を味わえるのが楽しかったですね。また、「これはこうではないか」と仮説を立て、それを忍耐強く検証していって、確かにそうだとわかった時の喜びは格別です。さらにその研究を発表すると、全く知らない人が私を知ってくれたりもする――。研究によって世界とつながれることが、研究の醍醐味ではないでしょうか。

▲高校教員時代の1枚です。教え子が自分の人生を歩む中で、私の教えたことが少しでも役に立っていたら、これほど嬉しいことはありません。

つらさが心を鍛えてくれる

 研究は楽しいことばかりではありません。つらいこともたくさんあります。私も、多くの時間と労力を費やしたにもかかわらず、何の成果も得られずそれまでの苦労が報われなかったことが何度もあります。でも大切なのは、失敗してもめげないことです。
 大学の卒業研究で、本格的に研究を始めた4年生の中には、何度か失敗すると心がくじけて泣いてしまう学生がいます。そんな学生には、「今はつらいかもしれないけれど、それは心が鍛えられているんだよ」と話します。失敗してもやり直せばいいじゃないですか。繰り返すうちに“免疫”がついて失敗がこわくなくなり、「次はこうしてみよう」と前向きに考えられるようになります。失敗によって“心の免疫力”がつき、それが成長につながるのです。
 一生懸命がんばった結果、たとえ失敗に終わったとしても、精一杯努力したことは決して無駄にはなりません。長い人生の中には自分でコントロールできないこともしばしば起こります。それを乗り越えるのは簡単ではありませんが、立ち向かい乗り越えようと努力することが大切です。学生の間にたくさんの経験を積み重ね、どんなことがあってもくじけない、タフな精神力を身につけてください。

▲これからは学際的に学ぶことがますます重要になってきます。幅広い分野から様々な知識を身につける意識を持ってほしいですね。

関塾

タイムス編集部

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