2022年3月号 わたしの勉学時代 福島大学 学長 三浦 浩喜先生に聞く

国立大学法人福島大学の教育理念は、「地域と共に21世紀的課題に立ち向かう大学」。東日本大震災からの学びを活かした「福島大学ミッション2030」のプランを掲げ、新しい社会システムを構築するために、学生と教員、そして地域が共に手を取り合って諸課題の解決に挑んでいます。その指揮を執るのが現学長の三浦浩喜先生。幼い頃から絵を描くことが大好きで、中学時代はクリエイティブな仕事に憧れていたそうです。

【三浦 浩喜(みうら・ひろき)】
1961年生まれ。福島県出身。教育学修士(福島大学)。
83年3月福島大学教育学部卒業。福島県公立中学校教諭を務めた後、93年3月福島大学大学院教育学研究科修了。96年より同大学教育学部助教授、2004年より人間発達文化学類助教授、07年より准教授、08年より教授。09年から教育研究評議会評議員を併任し、14年理事・副学長(学務担当)に就任。その後、総合教育研究センター長、教育推進機構長と歴任し、20年4月より現職。東日本大震災発生後、「子ども支援ボランティア」を統括。日本イノベーション教育ネットワーク共同代表。専門は美術教育学。 

図工に夢中だった小学校時代

 私は福島県の出身で、酪農を営む農家に生まれました。家族は両親と、姉、妹2人です。裕福な家庭ではなく、冬になると父親は東京へ出稼ぎに行き、その間、男手が必要な仕事を手伝っていました。勉強や遊びに関しては自由で、親から「これをやりなさい」と言われることもなく、気ままに好きなことを楽しんでいました。
 一番好きだったのが絵を描くことで、人気の漫画などを真似ていました。手塚治虫や石ノ森章太郎といった、日本を代表する漫画家が活躍していた頃で、当時の子どもの多くが憧れていたと思います。私もその一人で、絵だけではなく自分でストーリーを組み立てることも好きでしたので、暇さえあれば部屋にこもって絵やシナリオを書いていましたね。
 学校の勉強については、それなりにやっていた、という感じでしょうか。体育と音楽は苦手で、図工が得意でした。絵はもちろん、工作も好きでしたから、小学校の6年間は図工を中心にまわっていたと言ってもいいくらいです(笑)。

入院生活で考える癖がついた

 中学生活は大きな病気から始まります。脚の骨に腫瘍が見つかり、当時流行っていたテレビドラマで登場人物の一人が私と似た病気で死んでしまうのを見て、「もしかして自分も……」とすごく落ち込みました。幸い完治しましたが、4か月の入院生活で性格が変わったと思います。
 高校受験は地元の公立校しか視野になく、一定の成績を維持できるように最低限のことはやっていました。将来は漫画やデザインに関わるクリエイティブな仕事をしたいと思っていましたが、中学時代に何をしておけばいいのかわからなかったので、ひとまず今やるべき勉強に集中しました。
 高校入学後、ある日突然盲腸になり、入院したのですが、それが期末テストと重なってしまい、救済措置として代わりにレポート課題が与えられました。山間部と都市部の世代交代で文化がどう伝えられるのかというテーマで論文を書き、提出すると先生に「本当に三浦が書いたのか?」と聞かれ、自分で考えて書いたと答えると、とても驚かれたのを覚えています。私は山間部の田舎育ちだったので、高校で知り合った都市部の友達に対して強いコンプレックスを感じていました。そこから抜け出したいと思い、いつも考えていたことをまとめました。中学時代に長期入院した間に、死生観を含めて、自分で考えを巡らせる癖がついていたおかげで、感じたことを理路整然と書いてまとめることが得意になりました。

▲高校時代は理系で、化学の実験が好きだったので、放課後は化学部の生徒に交じってワクワクしながら実験を楽しみました。受験勉強の時も、友達とクイズを出し合って勉強していましたね。

一発勝負で挑んだ大学入試

 進路を決めたのは、高3の夏頃です。入学した頃は、「卒業後はデザイン学校に行きたい」と考え、資料を取り寄せて親に話したのですが、経済的な理由などで早々にあきらめました。以来、どうせ家の農業を継ぐのだからと、勉強らしい勉強をしなくなり、当然、成績は下降の一途。そんな私を見かねた担任の先生が、「4年制の大学を目指したらどうだ」と提案してくれました。そして、親に話すと、意外にも「受けてもいい」と言ってもらえ、「チャンスを手に入れた!」と嬉しくなりました。
 そこから真剣に勉強し始めましたが、それまで模試などを受けていなかったため、他の生徒のようにデータをもとに志望大学を選ぶ余裕もありません。ですから“一発勝負”で地元の福島大学に挑もうと決め、美術を勉強できるところがいいだろうとの先生の勧めもあって、教育学部の美術科に進路を定めました。そして受けたら、まさかの合格。“救われた”という気持ちが強く、入学後は朝7時半に登校し、授業を受け、デッサンを描いて、本もたくさん読み、毎日夜の10時過ぎまで大学にいました。私にとっては、趣味でしかなかった美術に毎日取り組めるなど思ってもみなかったので、夢のような生活だと感じ、自ら文学や哲学、教育学などを勉強しました。

生徒の心をひとつに   

 大学卒業後は地元の公立中学校に美術科教諭として就職しました。私の“本当の人生”はここから始まります。当時の中学校は全国的に荒れていて、赴任先の学校も県内で5本の指に入るほどでした。美術を教える以前の問題で、授業そのものが成立せず、大学で熱心に学んだことが全く通用しませんでした。「もう今日で辞めよう……」と思うような日々が続きましたが、このままでは現実につぶされると思い、教育に関する様々な本を片っ端から読みました。そこから生まれたのが、転機になった生徒たちとの巨大な壁画制作です。反抗ばかりする生徒の心をひとつにし、地域の人にも「この学校はすごい」と思われたい一心でした。
 壁画は、全校生徒360人分の絵をつなぎ合わせて屋上から吊り下げるという、校舎の壁を覆うくらい大きなものでした。壁画を下ろし始めた時に強風が吹いて、「飛ばされてしまう!」と思った時、2階の窓から即座に身を乗り出してつかみとめた生徒がいました。その生徒はなんと、一番反抗的なリーダー格の生徒だったのです。他の生徒たちも次々と後に続き、まさに皆の気持ちがひとつになった瞬間でした。それ以降、荒れていた状態も落ち着き、アイデアひとつで、生徒と先生の関係も、学校も変えられるのだと身をもって感じました。

▲全校生50人ほどの中学校で勤務していた頃の写真です。私と同じように地域にコンプレックスを抱える生徒たちと一緒に「この学校にしかできないものをつくろう」と頑張っていました。

既存のシステムに頼りすぎず

 こうした経験から、教育全体、教育社会学や教育システムへの関心が高まり、母校の福島大学に大学院が開設され、戻ってきました。大学院の後は、縁あって母校で大学教員の道に進むことに。15年後に、東日本大震災という人生の転換期が訪れます。自分の無力さに苛まれるショッキングなできごとでしたが、立ち止まってはいられず、避難所の子どもたちの面倒を見る「子ども支援ボランティア」を立ち上げました。そして、ここでも中学の教員時代と同様、学生が成長する姿を目の当たりにしました。
 当初、避難所の子どもたちはストレスが大きく、わざと反抗的な態度をとる子も多くいたのですが、学生たちは毎日粘り強く接し、子どもたちも徐々に心を開き始めました。その後、被災地の子どもたちを地域復興支援の担い手として育てて、東北の魅力をフランスのパリからアピールするという国際プロジェクトの責任者になり、若者の力を世界に発信しました。地域と関わり、実社会に出て学ぶことで若者たちは大きく成長することを実感し、現在、そうした教育を拡充するために学長として尽力しています。
 関塾で頑張っている皆さん、そして親御さんへは、世の中にあるシステムに頼りすぎてはいけないということをお伝えしたいです。社会では、東日本大震災や新型コロナウイルスの大流行のように、既存システムの多くが役に立たなくなることがあります。何の支えがなくても人間は道を切り拓かなければならない時があり、その際、システムがないと動けないようでは途方に暮れてしまいます。いざという時に、自分の感性などを味方にして行動できるようになってほしいと思います。失敗は子どもの特権です。今のうちに様々なことに挑戦して、試行錯誤を繰り返し、柔軟な発想ができる思考力を磨いてください。

▲教育が好き、子どもが好きという理由で教員になったわけではありませんでしたが、現場での活動を積み重ねていく中で、「こんなにおもしろい仕事はない!」と心から思いました。

関塾

タイムス編集部

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