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2022年8月号特集② 日本に伝わる三大怨霊

 怨霊とは、恨みを持って人に災いをもたらす霊のことで、古代より様々な怨霊の存在が伝えられています。その中でも特に恐ろしい力を持ち、日本三大怨霊と呼ばれているのが、菅原道真、平将門、崇徳天皇で、いずれも平安時代の人物です。

 3人のうち最も有名なのは、学問の神様としても知られている菅原道真で、人気漫画『呪術廻戦』でも登場人物の先祖として挙げられました。学問の神様が怨霊だったと聞いて、驚く人も多いのではないでしょうか? ですが、実は他の2人も現在では神様として祀られています。古代の日本では、怨霊となった人物を神様として祀ることで、怒りを鎮めようとしたのです。それほどまで恐れられた彼らは一体どのような力を持っていたのか──今回は、日本三大怨霊にまつわる伝承を紹介します。

菅原道真

雷をあやつる神

 菅原道真(845~903年)は、平安時代中期の学者・政治家です。幼い頃より学問や詩歌の才能に優れ、宇多天皇に信頼されて出世を重ねます。醍醐天皇の代には、朝廷で最高の地位である左大臣に次ぐ右大臣にまでなりました。しかし、こうした出世が他の貴族たちの反感を買い、左大臣の藤原時平に無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されてしまったのです。その2年後、都に戻ることなく、失意のうちに亡くなりました。
 道真の死後、都で雷など天災が頻繁に起こったり、時平をはじめ藤原氏の一族が若くして亡くなったりすることが続いたため、道真の祟りだという噂が流れました。恐れた醍醐天皇は、道真の左遷を取り消して昇進させますが、災いは続き、ついには、内裏の清涼殿に雷が落ち、数人の貴族が死亡する大惨事が起こります。事件に衝撃を受けた醍醐天皇も病気になって亡くなりました。その後、道真の怨霊による、自分を祀る社を建てるようにというお告げにより、北野天満宮(京都府)や太宰府天満宮(福岡県)が創建されたと伝わっています。当初は雷神として祀られましたが、生前優秀な学者だったことから、次第に学問の神様として信仰を集めるようになったのです。

東国を治めた新皇

 平将門(?~940年)は、平安時代中期の関東地方の武士です。もとは都で天皇に仕えていましたが、父親の死をきっかけに関東へ戻り、親戚間での相続争いに勝利して、名声を得ました。その勢いに乗って近隣の8つの国を武力で制圧し、朝廷と対立して、自分は東国の「新皇」であると名乗り、反乱を起こします。しかし翌年、朝廷の命令を受けた藤原秀郷や平貞盛たちに倒されました。
 将門には、6人の分身がいる、肉体はこめかみ以外が金属でできている、などの人間離れした力があったとの伝説が多く残っています。討たれた将門の首は、都に運ばれて日本史上初めてのさらし首となりました。この首は三か月経っても、色も変わらず、目も閉じず、夜な夜な「斬られた体よ、戻って来い。頭とつながって再び戦をしようではないか」としゃべり、人々を怖がらせました。これを見たある人が、将門は既に討たれたのだという歌を詠んだところ、首は笑って目を閉じたそうです。首はその後、斬られた胴体を求めて東国に飛んで行き、力尽きて落ちた場所に塚が築かれ、埋葬されました。しかし、将門の怨霊が祟りを起こし続けたため、神として祀ったところ、ようやく鎮まったとされています。

日本一の大魔縁 

 崇徳天皇(1119~1164年)は、平安時代末期、5歳で即位しました。この頃は、退位した上皇の方が天皇よりも権力を持っており、実際の政治は父親の鳥羽上皇が行っていました。しかし、崇徳天皇は鳥羽上皇の実の息子ではないという噂があり、疎まれていたのです。そのため、自分の息子を天皇にすることも許されず、上皇となった後も全く政治を行わせてもらえませんでした。ついには、同じように政権に不満があった貴族や武士と手を組んで、武力で弟の後白河天皇から権力を奪おうと反乱を起こします。しかし失敗して讃岐国(現在の香川県)へ流罪になり、許されることなく8年後に亡くなりました。
 崇徳上皇は、謝罪と反省を込めて経典を書写し、都の近くに奉納してほしいと後白河天皇に送りましたが、突き返されてしまいます。この仕打ちを深く恨み、「日本一の大魔縁(様々な災厄を引き起こす天狗)」となって復讐すると誓い、以後、髪も爪も切らず異様な姿で亡くなったと伝わります。その後、後白河天皇の周囲の人が次々と亡くなる、天皇自身も病気になる、大火事が発生するなどの災厄が起こりました。そこで、崇徳上皇の怨霊を鎮めるため、讃岐国や京都に社を建てて神として祀ったのです。

平 将門

崇徳天皇