関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年7月号 わたしの勉学時代

研究者を志したきっかけ

 私は4歳まで北海道札幌市で過ごしました。3年保育の1年半ですね。神奈川県鎌倉市大船に引っ越した後は約半年の休みを挟み、1年間ミッション系の幼稚園に通いました。この鎌倉の幼稚園でのことは、強く印象に残っています。特に、クリスマス会の劇で「*1東方の三博士」の一人を演じたことはいまだに忘れられません。その後、私が中学生の時には、今度は7歳下の弟が藤沢市のミッション系の幼稚園に通いました。弟の付き添いで通った日曜のミサでは、聖書の話などを聞いたものです。このように、子ども時代には、人類愛や博愛などキリスト教の精神に触れる機会が何度もありました。感動し、共感することが多かったですね。私の心の土台は、こうした体験で育まれたと思っています。
 私の父は、札幌農学校(現・北海道大学)で農学を修めた人です。卒業後は就職し、農薬の開発に携わっていました。真面目で一本気、研究熱心な父でしたね。神奈川県に引っ越したのは、大船にある研究所に異動したからです。幼い頃は、何度か研究所に連れて行ってもらいました。そこで見た研究者としての父の姿に、憧れを抱いたものです。白衣もかっこよかったですしね(笑)。
 こうして振り返ってみると、幼い頃の体験が、農学者を志すきっかけの一つになったと感じています。父の背中を追う気はまったくなかったのですが、結局は同じ研究者になりました。不思議なものです。

*1新約聖書に登場する、イエスの誕生の際にやって来て、これを拝んだとされる3人の賢者。

私は3兄弟の長男で、7歳下と13歳下の弟がいました。高校受験の時は、下の弟を膝に抱いて机に向かっていました。勉強になりませんでしたね(笑)。

ブラスバンドの指揮者を経験

 小学校1年生の5月に藤沢市へ引っ越しました。一応転校生ではありましたが、入学間もない時期だったので、友達もすぐにできました。放課後は、同じ団地に住む友達と一緒に、野球をしたり相撲を取ったりしたものです。ただ、我が家は宿題が終わらなければ外に出してもらえませんでした。そして、私もそれを律義に守っていました。我ながら良い子だったなと思います(笑)。小学校時代は、母がとにかく厳しくて、常日頃から「成績はオール5を取りなさい」と言われたものです。しかし、家庭科の実技がどうしても苦手で、残念ながらオール5は取れませんでした。当然母からは怒られました。自分としてもとても悔しかったですね。
 また、うちは裕福ではなかったので、習い事は一切させてもらえませんでした。バイオリンを習っている友達が羨ましくて、一度「自分もやりたい」と訴えたことがありましたが、「お金がかかるからだめだ」と一蹴されてしまいました。結局、小学校時代には何もやらせてもらえませんでした。
 楽器の演奏を始めたのは、中学2年生からでした。友達に誘われてブラスバンド部に入ったことがきっかけです。ユーフォニウム(ユーフォニアム)という楽器を担当していましたが、3年に進級する際に、部長と指揮者を兼任することになりました。運動会や市のイベントでパレードをする時は、先頭に立ってタクトを振ったものです。演奏も指揮も面白かったですよ。我ながら「音楽の才能があるな」と自負していました(笑)。結局、音楽大学への進学は親に止められてしまいましたが、今となってはそれで良かったと思っています。
 また、中学生の頃には、ぼんやりと「将来は医師になろうかな」とも考えていました。というのも、母方の祖父が医師で、大学は医学部に進むよう言われていたからです。文系の教科が不得意だからというわけではありませんでした。読書も大好きで、国語の教科書にある日本人の作家(芥川龍之介、川端康成、森鴎外、島崎藤村、夏目漱石など)を中心に、日本文学を読んでいました。

小学生の頃はジュール・ヴェルヌの作品に夢中でしたね。特に「海底二万里」や「地底旅行」、「月世界旅行」に没頭しました。

医学部から農学部に志望転換

 高校は、神奈川県立希望ケ丘高等学校に進学しました。旧制中学の流れをくむ伝統校で、進学校でもありました。当時の制服がかっこよかったのも志望理由の一つでした(笑)。襟や袖にじゃばらがついていて、ボタンは黒だったんですよ。また、高校でもブラスバンド部に入り、今度は3年間みっちりとユーフォニウムを吹きました。
 高校受験は大変でした。当時の神奈川県には「*2アチーブメントテスト」というものがあり、まずはここで良い成績を残さなければなりませんでした。アチーブメントテストの後は本格的に受験勉強を始めるわけですが、それが運悪く1964年の東京オリンピックの年だったんです。オリンピックが始まる10月は追い込みの時期なので、競技を見たくても見られないわけです。「なんで、このタイミングでオリンピックをやるんだよ」なんて思いながら、机に向かっていましたね(笑)。
 高校入学後、医学部進学を考えていた私に転機が訪れました。ある日、「医学部を志望している者は集まるように」という校内放送がありました。10人程集まったと思います。それは校医の先生による進路相談の場でした。当時の私は、ロベルト・コッホや北里柴三郎のような細菌学者、あるいはDNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンやフランシス・クリックのような生化学者に憧れていました。そこで、基礎医学を学びたいと言ったところ、先生からは「そんなのを学んでどうするんだ?」という答えが返ってきたんです。「儲からないし、落ちこぼれが行くところだぞ」って言われました。ひどい話ですよね(笑)。それで一気に医学部に進学する気が失せてしまいました。そして、「医学部以外で細菌学や生化学を修めるなら理学部か農学部だ。それならば父と同じ農学部がいいだろう」と考えたわけです。高校2年生の時でした。

*2神奈川県で中学2年生の3学期に実施されていた学力テスト。結果は公立高等学校の入学判定に反映された。

市民祭りでパレードの先頭に立つ、中学生の竹内先生(左写真)。竹内先生は、大学のオーケストラでホルンを吹いていました(右写真)。

水産のことは何でも学ぼう!

 実は、大学受験には一度失敗しています。それというのも、高校3年生の時の担任が「何事もチャレンジ精神が大事だ。浪人したっていいじゃないか。みんなで東大を受けるぞ!」と言って、多くのクラスメイトがその話に乗ったからです(笑)。結果、推薦入試組を除いた40名以上が浪人生となってしまいました。もちろん私もその一人でした。後で聞いたところ、先生は校長や保護者から相当怒られたそうですよ(笑)。ただ、それが結果として良かったと今では思っています。なぜなら、東京水産大学(現・東京海洋大学)と出合うきっかけになったのですから。
 大学入学後は大変苦労しました。農産物のことはある程度理解していても、水産物はまったくわからなかったからです。周りとの知識の差に落ち込み、退学を考えたこともありましたよ。そんな時、高校時代の友人から「せっかく入った大学なんだからもったいない!」と叱咤激励を受けました。それで「生物、食品、増殖。水産のことは何でも学ぼう!」と肝を据えることができました。すると、そのうち実験が楽しくなったんです。大学4年生になると、「この大学に入ってよかった!」と思いながら、朝から晩まで研究室にこもっていました。
 私の研究は、養殖の魚をいかに健康に育てるかを考え、試すことです。大学院では魚のえさを研究していました。研究者時代には、魚にとって重要な栄養素を突き止めて、教科書の定説を塗り替える成果も上げたのですよ。今では、新鮮で臭みのない美味しい養殖魚がたくさん出回っていますね。そこにも良いえさの開発が関係しています。種の保護という点においても、増殖は重要な研究分野なのですよ。

好き嫌いなく勉強しましょう

 私は、大学4年生になって研究が楽しくなりました。そこでようやく「小学校からちゃんと勉強してきてよかった!」と思えました。
 皆さんの持つ可能性は無限大です。その可能性を潰してしまうのが、勉強の好き嫌いだと思います。この先、本当にやりたい分野と出合った時、文系・理系のどちらもしっかり勉強していれば、まちがいなくチャンスを手にすることができます。
 どのような教科も好き嫌いなく、繰り返し丁寧に勉強しましょう。できれば、人の2倍勉強するつもりで取り組んでください。積み重ねてきたものは、無駄になることは絶対にないのですから。

海外探検隊

 海洋に関する総合的な教育研究で日本をリードする東京海洋大学。学生たちもまた、世界を視野に入れた学びに積極的です。そのうちの一つ、平成25年度より正式科目となった「海外探検隊(海外派遣キャリア演習/長期学外実習(海外))」は、ユニークな産学連携のオリジナルプログラム。学生たちはシンガポール国立大学、香港大学、国立台湾大学、チュラロンコン大学、ベトナム科学技術アカデミーといったアジアのトップ大学や研究所に訪問し、現地の学生たちと交流します。また、ビジネスマンや行政官、大学関係者との交流も予定されています。 1か月間の実習型授業を通して、様々な国の歴史や文化、産業を学び、学生や社会人との交流を行うプログラム。学生たちは充実した日々を過ごし、たくましく成長します。

模擬国連では、学生たちは自国以外の国の代表となり、課題解決のために話し合いを重ねます。