関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年2月号 わたしの勉学時代

各地を転々とした幼少期

 私は、出身地を問われたら、兵庫県芦屋市と答えています。しかし、生まれた場所は福岡県北九州市門司区です。出生の翌年には神奈川県横浜市へ移り、さらに幼稚園から小学2年生の夏休みまでは大阪府堺市で過ごしました。その後も東京都新宿区戸山町へ引っ越したり、そうかと思うとまた横浜や大阪に戻ったりしました。そんな各地を転々とする中で、中学校・高等専門学校時代に住んでいたのが芦屋市でした。青春の多感な時期を過ごした土地であることから、兵庫県が出身であると答えているわけです。
 転勤族だった父は、日本製糖(現・フジ日本製糖)に勤めていました。いつも忙しそうで、平日の夕食を共にした記憶はほとんどありません。しかし、とても優しい父でした。たまに暇ができれば、母と一緒に私や妹を遊びに連れ出してくれたものです。「勉強をしなさい」と叱られたこともなく、伸び伸びと育ててもらったと思います。

父は仕事に忙しく、鹿児島県の奄美大島に2年間ほど単身赴任をしたこともあります。

電気に対する興味・関心

 小学生の頃はカブスカウトの活動に熱心で、キャンプで飯盒炊爨などを学びました。また、友達と広場で野球などをして遊ぶのが好きでした。どちらかというとアウトドア派だったかもしれません。一方で勉強は苦手でした。6年生の6月、大阪の学校に戻って来た直後の実力テストのことは今でも覚えています。結果がクラス40人中32位の成績だったんです。これには理由があって、6年生の4月から通っていた横浜の学校とは、扱っている教科書が違ったからなんですね。実力テストでは、横浜で6年生の後半に習う鶴亀算が出てきて、まったく解けませんでした。教科書の違いは仕方がないことですが、苦手意識が残ったためか、その後も成績はぱっとしませんでした。芦屋市立山手中学校に進学する際に受けたクラス分けテストでも、一学年270人のうち170位くらいでしたから。
 勉強は苦手だったものの、小学校の頃から算数や理科は好きでしたよ。とりわけ電気に興味がありました。電気は、目には見えないのに、いろいろな物を動かすことができるところが魅力でしたね。小学校の卒業文集に「将来の夢は電気技術者か建築家」と書いたことも覚えています。時計など家にある物もよく分解していました。電器店の人がテレビの修理に来た時などは、横に張りついてじっと見ていたものです。当時はブラウン管テレビで、裏側を外せば構造がよくわかりました。振り返ってみると、この頃から工学系への道筋ができていたのでしょうね。
 東京にいた頃は、理科教室に数回ほど行ったことがあります。これは面白かったです。たしか新宿区が企画した教室でした。休日、いくつかの学校の小学生たちが理科室に集まり、グループ研究をするというもので、この時は電池を分解しました。昔の電池は、今と比べて分解しやすかったんです。それから、東京の早稲田小学校では印象的な出会いもありました。5年生の時のクラス担任だった川口慶子先生です。川口先生から教わり、今でも鮮明に記憶していることがあります。国語の授業で「目上の人には敬語を使いましょう」と教わったことです。それまで敬語という存在をまったく意識していなかったので、なおのこと印象に残ったのでしょう。川口先生は、とても丁寧な授業をされる人でした。先生とは後年まで年賀状のやり取りをしていました。

*スカウト運動に参加する小学3年生から5年生までの少年少女。6年生からはボーイスカウト。

勉強に対する意識の変化

 テスト勉強は毎回計画倒れ、成績も伸び悩んでいた中学2年生の私に、一つの転機が訪れます。冬のある日、インフルエンザで学級閉鎖になり、自宅待機をすることになりました。そこで、炬燵に入って何の気なしに勉強を始めたんです。まずは数学の教科書を復習しました。それで、思いのほかスラスラと問題が解けたので、だんだん面白くなってきたんですね。これを機に、勉強に少し前向きになれたと思います。
 中学3年生になり、受験を視野に入れた勉強を始める際に、これまでの計画倒れを反省しました。そして、まずは「1日何時間を勉強に費やせるか」を可視化することにしたんです。起床時間、学校での勉強時間、食事や休憩のタイミングなどを書き出して、最大限の勉強時間を確保しようとしました。可視化するだけで勉強への姿勢もだいぶ変わってきます。そうして、当時流行っていた深夜ラジオを聞きながら、夜中の2時や3時頃まで机に向かうことが増えました。しまいには父親から「もう勉強しなくていい」と言われたほどです。
 進学先は「エンジニアになるための専門知識を学びたい」という理由で、神戸市立工業高等専門学校の電気工学科を選びました。高専の授業では、数学と物理に関しては、大学の教養程度の知識が網羅されている教科書を使用しました。専門分野の勉強にも励み、とても充実した5年間でしたよ。高専の2年生あたりだったと思うのですが、ちょうど電子計算機(コンピュータ)が出始めたんです。そこで同好会をつくってプログラミングに取り組み始めました。IT技術の専門に進むのもいいなと思って、情報処理技術者認定試験にも合格しました。

中学2年生頃は、学年で100位くらいの成績だったと思います。この頃は、テスト勉強の計画を立てても、その通りにいきませんでした。

他分野へ目を向けること

 高専を卒業後、学生のほとんどが就職を希望する中、私は大学への編入学を決意します。IT技術の専門家も魅力的でしたが、導体により強い興味を抱き、研究の道に進みたいと思ったからです。そして、東京工業大学に編入して出会ったのが、恩師の高橋清先生(東京工業大学名誉教授)でした。高橋先生は優しい方でしたが、何でも教えてくれる優しさとは違いました。そういう意味では厳しい環境だったかもしれません。実験や発表の仕方などは、当時博士課程におられた小長井誠先生(東京工業大学名誉教授)によく指導していただきました。「何を伝えたいのか全くわからない」と叱られたこともありますが、そんな私に手取り足取り教えてくださり、本当に感謝しています。また、駆け出しの研究者時代には、東北大学において大見忠弘先生(東北大学名誉教授)に大変お世話になりました。大見先生からは「もう学生ではないのだから、プロらしい研究をすること」「物事は原理・原則から考えること」など、研究者としての姿勢を教わりました。こうして振り返ってみると、良い出会いに恵まれたと思います。
 そうして研究生活を経て、東京工業大学の学長となった今、教育と研究における改革を進めていくことが私の使命です。改革を成功させるための共通の価値観として、「東工大コミットメント2018」を発信しています。「多様性と寛容」「協調と挑戦」「決断と実行」の3つを実行していきます。自分の志を貫くことも大事ですが、周囲の多様な意見を取り入れることも肝要です。新しいものは、様々な技術が合わさって生まれます。だからこそ、研究者・技術者は、専門分野を磨きながら、他分野に目を向けることが大事なのです。意見が異なるからといって遠ざけていては、望むような成果は得られません。「あれはいやだ」と思っていることに限って、後々必要になってくるものです。

駒沢公園でのご両親との思い出の写真と、大学院生時代の自転車旅行での一枚。自転車の一人旅では、行く先々で様々な人との出会いがあったそうです。
※右写真:中央が益先生。

親子で共に学び、遊ぶこと

 私がいまだに覚えているのが、小学1年生の時に、親についてもらいながら国語の宿題をやったことです。「親が一緒に勉強してくれた」思い出が、強く印象に残っています。こうした経験から、特に小・中学生のお子さんを持つ保護者の方には、親子で一緒に勉強をする機会を持っていただきたいと思います。それが、子どもが勉強に興味を抱くきっかけになるかもしれません。大人になって改めて教科書を読み返したら、新鮮な気持ちで知識を吸収できると思いますよ。わからないことは恥ずかしいことではありません。「お母さんもわからないから、一緒に学ぼう」でも構わないのです。勉強に限らず、遊びでも何でも親子一緒の体験を増やしていただけたらいいなと思います。共に学び、遊び、感動する時間を持ってもらえたら嬉しいです。

東工大の国際交流

 「多様性と寛容」「協調と挑戦」「決断と実行」の3つのコミットメントを発信している東京工業大学では、国際交流も積極的です。世界84の国と地域から年間約1700人もの留学生を受け入れ、キャンパス内も国際色豊か。数年前から入学式での学長式辞は、日・英両言語で行っています。また、学生寮で生活する人数のうち約6割が留学生(2018年5月現在)なので、日常的に多様な文化・考え方に触れられるのが魅力ですね。日本の学生を対象にした留学プログラムはもちろん、世界の大学・研究機関との協定も充実しています。学士課程を卒業した学生の9割が進む大学院では、2019年4月までに専門科目の講義は全て英語で実施。世界に挑戦したい関塾生は、志望校の一つに考えてみてはいかがでしょうか!

東工大の学生寮は、留学生との交流も魅力の一つ。