関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2018年11月号 わたしの勉学時代

焼きたてパイの思い出

大阪市は生野区、どちらかといえば布施(東大阪市)の近くが、私の生まれ育った場所です。そこは典型的な下町で、少し足を延ばせば長閑な田園風景も広がっていました。空き地も多く、毎日のように子どもたちが集まって遊んでいたものです。夏はトンボを追いかけ、冬はビー玉遊びなどをして、みんなで楽しく、伸び伸びと過ごしました。今の子どもたちはビー玉を持っていないかもしれませんね。投げたり落としたり様々なルールがあって、なかなか工夫しがいのある遊びで面白かったですよ。
そんな私の実家は、クッキーやパイなどを焼く洋菓子製造業を営んでいました。従業員は多い時には30人ほどいたでしょうか。私も小学生の頃から家業の手伝いを始めました。当時の時給は10円で、ほとんど何でもやっていたと思います。ドレンドチェリーやアンゼリカといった材料をカットして、クッキー生地にのせていく作業もしました。ラッピングもしましたよ。中学生になってからは、一度にたくさんのクッキーの型を抜き、鉄板に落としていく力仕事も任されました。
お菓子の甘いにおいには慣れっこだったので、つまみ食いの誘惑にも耐えられました。しかし、一度だけパイを盗み食いしてしまったことがあります。焼きたてのパイは本当に美味しいのです(笑)。それで、ちょうどお腹が空いていたので、つい手が出てしまったんです。そうしたら、すかさず父のゲンコツが降ってきました。厳格で短気な父でしたので、子どもがほんの出来心でしたことであっても、きっちりと叱られたものです。

子どもの頃は、アニメに出てくるような空き地がたくさんありました。みんなで三角ベースやドッヂボールをして遊んだものです。

好奇心の延長線上にある学び

私は料理が好きで、今でも週に3日ほど台所に立ちます。スーパーで旬の安い食材を見つけて献立を考えたり、冷蔵庫の残り物で手早く調理したりといった、日々の食卓に並ぶメニューが中心です。なぜ料理が得意かというと、小さな頃から母の手伝いをしていたからです。最初は風呂焚き係くらいしかできませんでしたが、やがて買い物担当になり、台所助手を経て、最後には母に「あれを作っておいて」と言われたら一人でも調理できるまでになりました。母に鍛えられたおかげで、料理は今も私の生活の一部であり続けています。
4男1女の次男だった私は、学年が一つ上の兄といつも一緒でした。年齢でいうと兄は1歳8か月も上なのですが、そんなに差を感じていませんでした。だからこそ対抗心が強かったですね。特に“学び”に対しては「はやく兄貴に追いつきたい!」とばかり思っていました。私たち兄弟にとっての“学び”は、学校の勉強ではなく、好奇心の延長線上にある物事のことでした。星座早見盤を見ながら夜空を眺めたり、科学実験を考え出したりといったことを、よく二人でしていましたね。薬品がかかって服をだめにしてしまったことも、実験に失敗して爆発を起こしたこともありました(笑)。
一方、学校の勉強に対しては、「わからないことは必ず授業中に解決する」ことを心がけていました。きっかけは、小学4年時の担任だった石川先生に「授業中は先生の目を見ていなさい」と言われたことでした。ノートを取るタイミング以外は、先生の話に集中する。そうすれば、疑問に思ったことを質問するタイミングも逃しません。最初のうちは疲れましたが、そのうち慣れました。また、4月に新しい教科書をもらったら、すぐに最後まで一通り読み終えるようにしていたので、それも良い予習になっていたと思います。
宿題もなるべく学校で済ませるようにしていました。帰宅後のまとまった時間を遊びに充てるためです。夏休みの宿題も、そのほとんどを初日にやり終え、あとは全力で遊んだものです。そこで、いつも困ったのが『夏休みの友』の天気を書く欄です。8月末になって「天気を記録し忘れた」「どうしよう?」などと兄と一緒に慌てるのが恒例でしたね(笑)。

大阪の中学から千葉の高校へ

中学校は少しクセが強いといいますか、大阪市屈指の荒れた学校でした。作家の東野圭吾さんの有名なエッセイ『あの頃ぼくらはアホでした』にも登場する、大阪市立東生野中学校です。私もケンカに巻き込まれ、ケガをしたこともあります。このような環境で3年次には生徒会長に選ばれ、先生方からの期待を背負いながら、なかなか大変な学校生活を送りました(笑)。しかし、そんなクセの強い学校だったからこそ、先生方の指導力は本当にすばらしかったです。生徒たちをまとめ、机に向かわせた力量は相当なものだと思います。当時、東生野中学校に赴任した先生は、「他へ移りたければ1年以内に申し出るように」と言われていたようです。ですから、そんな中で10年以上勤務しているベテランの先生は、かなりの強者だったわけです(笑)。
そんな濃い3年間を過ごした後、高校は千葉県にある麗澤高等学校へ進みました。当時は完全な全寮制の学校でした。父親から受験を勧められたことと、兄が先に進学していたことから、「じゃあ自分も」と思ったことが志望のきっかけです。親から離れて暮らしたかったというのもあります。遠く離れた関東の地で、全国から集まって来た同級生に囲まれてカルチャーショックを受けることもありましたが、そこもまた楽しかったですね。文化的な背景が異なることを実感できたことは、良い経験になったと思います。
「世界史を研究したい」と思ったのは高校2年生の時です。わりと早い時期から歴史を学びたいと思っていました。「この世界は歴史の積み重ねでできている。社会が成り立ってきたプロセスを知りたい」という思いが強く、マルクス主義について興味を持ったのも高校時代からです。

小学校時代の石川先生からは、読書の必要性も教えていただきました。文学全集をはじめ、様々なジャンルの本を読み漁りました。

学力を自己分析して受験対策

京都大学文学部を目指すにあたって、まず自身の教科別の習熟度を分析しました。学校の授業だけで合格点に達する教科、それでは間に合わない教科の選別をしたんです。外部模試の結果を見ながら、入試当日までの学力アップのシミュレーションをしたことも覚えています。分析の結果、数学や英語は自分で数種類の参考書を買うことにして、1週間ごとの計画に沿って学習を進めていきました。参考書は基礎がしっかりしている本を選び、少なくとも2回以上は繰り返し解くようにしていましたね。参考書を一度きりで捨ててしまうのは、もったいないと思います。
そうして無事合格を果たした京大では、恩師である越智武臣先生とも出会い、充実した学びの時間を過ごすことができました。また、研究者時代には初めてハンガリーへ渡り、海外を経験しました。ちょうどベルリンの壁が崩壊した直後で、皆が自由を噛み締め、解放感に浸っていたのを覚えています。社会の変化を肌で感じた出来事です。そうした、いろいろな経験の後に、イギリスの歴史家エドワード・ギボンの研究に辿り着きました。300年以上前の書物や、遠いイギリスの歴史を知るための手書きの資料を調べる作業は、特に骨が折れましたね。インターネットもなかったので、イギリスに行かなければ手に入らない情報もたくさんありました。ギボンのおじいさんの正しい生年を調べるため、文書館にこもって当時の洗礼記録を一つずつ見ていったのですが、あの時は本当に大変でしたね。しかし、やりがいは十分でした。「神は細部に宿る」といいますが、これは学問においては「真理に到達するためには細かい作業も疎かにしてはならない」ということにつながります。歴史の研究では、折に触れてそのことを実感しました。

学びを活かす道を考えよう

若い皆さんにはぜひ、進んで読書体験をしてもらいたいと思います。2018年度、私は『新入生に贈る100冊』を紀伊國屋書店、丸善雄松堂と共に選び出し、入学生たちに渡しました。書店と組んだ読書啓蒙企画は全国初の試みです。こうして声を上げなければならないほど、今の若者は読書から遠ざかっています。インターネットからは簡単に情報を得られますが、それらはっぺらで上辺だけの内容であることがほとんどです。深い知識体験、興味を広げる体験は、読書でこそ得られます。最近は本を読まない親御さんも多いですね。これを機に家族で読書に親しみ、本棚のある家庭をつくってほしいと思います。
読書と同じく、学校や塾での勉強も知識を深める大切な作業です。テストの点が良かったり、成績が上がったりすると嬉しいですよね。そこはぜひがんばってほしいところですが、同時に、何のために学ぶのか、学びを何に活かすのかを考えてほしいのです。すぐには答えが見つからないかもしれませんが、“学びを活かす道”を考える時間は意識して持つようにしていただきたいと思います。

イノベーション創生センター

「研究、教育と並び、社会連携も大学にとって大切な要素」だと考える芝井先生は、学生や教員と企業・研究機関との連携強化にも力を入れています。それを実現するのが、2016年9月に社会連携部に設置された関西大学の「イノベーション創生センター」です。文理の枠を超え、インキュベーション(事業の創出や創業を支援する活動)機能、ベンチャー支援機能などを備えた活動拠点で、大学と企業・研究機関との交流などが行われています。また、今年の9月からは、主に学生の起業をサポートするため、学内に信託制度の委員会を設けて資金提供を始めました。すでに起業に関心を持つ50人ほどの学生グループがあるそうです。「大学で得た知識・技術を起業につなげたい」という人は、関西大学を目指してみてはいかがでしょうか。

大阪府吹田市にある、関西大学の「イノベーション創生センター」。