• わたしの勉学時代

2026年9月号 わたしの勉学時代 関西大学 学長 高橋 智幸先生に聞く

2026年11月に創立140年の節目を迎える関西大学。全国屈指の規模と歴史を誇る私立総合大学として、これまでにのべ53万人の卒業生を輩出し、現在も千里山キャンパスをはじめとする大阪府内の6つのキャンパスで、約3万人の学生が学んでいます。2024年10月に44代目の学長に就任した高橋智幸先生に、山形で過ごした幼少期のお話から、「水災害」を専門に研究されるようになった経緯などをお聞きしました。

【高橋 智幸(たかはし・ともゆき)】

1967年生まれ。山形県出身。博士(工学)(東北大学)。

1991年東北大学工学部卒業後、東北大学大学院工学研究科博士課程前期へ。同大学院工学研究科博士課程前期修了後、93年後期課程を中途退学、同大学工学部助手。98年京都大学防災研究所助手。2002年からは秋田大学工学資源学部助教授、准教授を歴任。2010年、関西大学社会安全学部教授に着任。その後、関西大学社会安全学部長、理事、副学長を経て、2024年10月関西大学学長に就任、現在に至る。専門は、水災害に関する防災・減災。

好奇心旺盛、読書と運動が大好き

 生まれは山形県山形市。両親は当時東京に住んでいましたが、故郷の山形で里帰り出産したそうです。そして、小学校に上がる前に一家で山形に戻りました。両親と3つ年下の妹がいるごく普通の家庭でしたが、父は「普通」の範疇に収まっていなかったかもしれません。個人で食品や文房具の卸業や、建設会社の下請けのような仕事に携わり、次々に会社をつくっては潰し、どこかに勤めたかと思えば、しばらくするとまた新たに何かを始めるといった、自分のやりたいように突き進む人でした。
 しつけに関しては、両親ともに、食事のマナーや挨拶が正しくできて、他人に迷惑をかけることさえしなければ自由にさせてくれていましたね。生来、好奇心旺盛な私は、興味を覚えたことはすぐに周囲の大人に聞いたり、調べたりする子どもでした。読書が大好きで、当時、地域を定期的に巡回していた「移動図書館」が近くに来るたびに、新しい本をたくさん借りて読み漁っていました。読書好きのおばの勧めで、大人っぽいSF小説などを読んでいましたね。運動も大好きで、小学校の頃は、毎日、友人とサッカーやドッジボールに興じていました。

かわいげのない生徒でした

 習字とそろばんは習っていましたが、勉強は小・中・高と、学校の授業のみでした。当時の山形に学習塾などはあまりなかったと思います。特に理系科目が好きで、社会のような暗記科目は苦手でした。それでも全体的に成績は良かったので、両親から「勉強しろ」と言われた記憶はありません。
 ただ、小中学生の頃の私は、かわいげのない生徒だったと思います(笑)。少々生意気なところがあり、先生方の授業を素直に聞くというよりも、「こう説明したほうがもっとわかりやすいのではないか」と、つい自分なりの考えを巡らせながら聞いていましたので。そんな子どもでしたが、小学校の理科の先生が、当時憧れていたニコンF2を実際に所有されていて、そのメカニズムについて詳しく説明してくださった時は、特に熱心に聞いた記憶があります。
 高校も、小・中同様、地元の公立校に進みました。高校では二つのクラブに入りました。潰れかけていた「体操部」と、休止状態にあった「生物部」です。生物部では、友人と一緒に文化祭で、ピラニアの展示を実現させました。私たちが思うほどには、誰も振り向いてくれませんでしたが……(笑)。いずれにしろ活気があって安定しているクラブには目が行かず、先の見えない状況にあるクラブに惹かれました。自分のコントリビューション(貢献)が目に見えて表れることにおもしろみを感じるんでしょうね。

▲様々なことに関心を持ちながら、自分なりの道を歩もうとするところは、父と少し似ているのかもしれません(笑)。

「防災学」にのめりこむ

 大学は、山形からでも1時間ほどで通える東北大学を目指しました。受験勉強も独学で、飽きっぽい性格だったため今日は数学、明日は物理と、その日の気分で進めていました。国語や数学、物理など配点の大きな教科で点数がとれたので、そうした勉強法でも合格できたのでしょう。ただ、気が進まない科目も、授業はしっかり聞き、宿題もこなしていました。そうした基礎的な知識は、後の人生で何かに興味を持った時に、思いもかけず役に立つものですので、皆さんも、受験に関係なく幅広い教科の知識を身につけておくことをお勧めします。
 大学時代はバブル景気の真っ只中でしたので、一般教養を学ぶ1~2回生の頃は、家庭教師や飲食店、道路工事などのアルバイトに精を出し、稼いだお金でスキーなどに出かけ、せっせと遊びました。
 3回生で、土木工学科の専門科目がスタート。これがびっくりするくらいおもしろくて、勉強にのめりこみました。3回生で都市、コンクリート、河川、海岸など一通りの土木工学を学ぶのですが、中でも防災学に強く惹かれました。それまで知識として知っていたことが、学べば学ぶほどにリアルに目の前に立ち上がってくるような感覚でした。防災というのは、堤防を造る人、警報を出す人、避難させる人……といった具合に、「人間社会の総合力」が問われる分野です。私たちの知らないはるか昔から繰り返し災害が発生し、悲しい歴史を重ねながら、防災の技術や手法は時代とともに進歩し続けてきました。そうした事実を学ぶほどに、自分もこれからの防災・減災に関わりたい、貢献したいと強く感じました。
 4回生で「河川工学研究室」を選択。山形県の内陸部に生まれ、最上川が大好きだったことから、川の防災について研究するつもりでした。ですが、教授が示された卒業論文のテーマ案の中に、一つだけ海岸工学分野の「津波」が入っていたんです。まったく思いもよらない、どうアプローチしてよいかもわからない分野でしたが、そこにおもしろみを感じて選択しました。
 ゴールデンウィークから大学にこもって研究に没頭しました。当時、大学でないと使えない大型コンピュータに、気仙沼湾の海底地形データを入力し、津波被害のシミュレーションを行いました。就活を後回しにして夢中になって取り組んだその卒業論文を学会に投稿したところ、学術誌に掲載され、注目を集めることに。気をよくしてそのまま大学院へ進学し、気仙沼湾を対象とした研究を続けたところ、2年続けて学術誌に掲載され、周囲からチヤホヤされ(笑)、そのまま博士課程に進んだという流れです。

▲綿密に計画を立てて進むよりは、何よりもまず、挑戦してみる。その中で見つけたおもしろさや新たな気づきに導かれながら、ここまで歩んできたように思います。

自身の役割を思い知る

 しかし、大きな転機が訪れます。博士課程に在籍していた1992年12月にインドネシア・フローレス島大地震が発生、現地調査に向かい、地震や津波の被害の凄まじさを目の当たりにしました。翌年に発生した北海道南西沖地震の現地調査に参加した際には、日常の様子がわかる自国で起こったことだけに、津波の破壊力をより強く思い知らされました。
 コンピュータで津波を再現したり、実験室で被害を推測したりする研究が主だったため、現地で甚大な被害を体感する機会はまれでした。それだけに、2回の現地調査で目にした光景は衝撃でした。そして、改めて自身の役割の重大さを痛感するとともに、より切迫した使命感を持つようになりました。そのため、博士後期課程の途中で大学院を中退し、東北大学の助手に就きました。助手の方が、行政・企業と協同した防災活動に関われ、より実践的な研究ができるからです。結果、博士号の取得は遅れましたが、「防災」により貢献できたという意味では、この判断は間違っていなかったと思っています。

▲2010年2月、宮城県の気仙沼湾にて。2010年のチリ地震の津波による海底変化に関する現地調査で訪れた時の一枚。

「寄り道」が人生を豊かにする

 その後、2つの国立大学での勤務を経て関西大学に着任しました。「社会安全学部」という、自然災害や社会災害の研究に取り組む学部が新設されると聞き、その立ち上げから関わりました。学生を指導しながら研究を続けていましたが、学長となった現在は、マネジメント側の立場で、学生や先生方が勉強や研究に没頭できる環境の整備に注力しています。
 特に、関西大学は「研究力」を重視しています。優れた研究を行っていればこそ高度な指導ができ、実効性のある社会貢献へつながっていくからです。そうした学びの過程で大切にしてほしいのが、「好奇心」です。研究でも受験勉強でも、「最短距離」で目標に向かおうとしがちですが、時には好奇心の赴くままに「寄り道」をしてみてください。そこで得た価値観や人とのつながりは、皆さんの人生を豊かにしてくれるでしょう。その後、元の道に戻った時にも、それまでと違った景色を見せてくれるはずです。