- わたしの勉学時代
山形大学は、6学部1学環と6つの大学院研究科を擁する東日本有数規模の総合国立大学。基盤共通教育と基盤専門教育を連動させた教育プログラムで「学問基盤力」「実践・地域基盤力」「国際基盤力」を育み、学生は自らの専門性を高めながら社会に貢献できる人間力を養います。東北出身の玉手英利先生は、地方大学のポテンシャルをさらに高めるために日々邁進。地域の発展と次代を担う若者のチャレンジを応援する取り組みに尽力されています。
【玉手 英利(たまて・ひでとし)】
1954年生まれ。宮城県出身。理学博士(東北大学)。
77年3月東北大学理学部卒業。79年東北大学大学院理学研究科博士前期課程修了、83年同大学大学院理学研究科博士後期課程修了・理学博士号取得後、山形大学医学部助手。89年石巻専修大学理工学部助教授。2003年山形大学理学部教授、13年同大学理学部長。15年山形大学学術研究院教授、16年同大学小白川キャンパス長。20年山形大学学長就任、現在に至る。専門は基礎生物学、生態遺伝学、進化生物学。
一人っ子だった私は、両親が共に働いていたこともあり、小学生の頃は一人黙々と外遊びを楽しんでいました。生まれ育ったのは、宮城県の仙台市。当時はまだたくさんの自然が残っていましたが、高度成長期で、団地造成のために近くの山は徐々に切り崩され始めていました。しかしそうした場所は、私にとっては格好の遊び場。岩肌があらわになった人工の崖は化石の宝庫で、「今日は何を発見できるかな?」と学校から帰ると、すぐさま駆けていったものです。
父は大学農学部の教授、母は高校の家庭科の教師でしたが、「勉強しなさい」と言われたことはありませんでした。ただ一度だけ、夏休みの自由研究で“一日に2度”叱られたことがありましたね(笑)。池の水の酸性度を調べると決めていたのですが、それを夏休み最後の日に取りかかったことで、まず叱られました。その後、両親に付き添われ近くの池へ出かけたのですが、沼地のため、泥水が気持ち悪くてなかなか手が出ませんでした。ぐずぐずしている私を見て、「自分で水をくまないとお前の自由研究にならないだろ!」と叱られました。忘れられない思い出です。
▲父の仕事道具のタイプライターや電子機器を遊び道具に育ちました。
中学時代は、父の転勤で2回転校し仙台と青森の3つの中学校に通いました。授業進度の違いから、中学の3年間は勉強でかなり苦労しました。それでも、虫捕りは相変わらず好きでしたから、野山に出かけては、その都度気づきを得ていました。例えば、同じチョウでも仙台では木の上を飛んでいるのに、青森では下草にとまっているといったことです。生き物の生態は土地ごとで異なることを肌で感じ、ますます生き物や自然に惹かれました。
高校は仙台で受験。県立の進学校に入学しました。しかし、中学での2度の転校が災いし、高校の勉強は、数学で大きくつまずきました。初めてのテストはクラスで最下位でした。そんな私を見かねた祖父の勧めで、毎週水曜日の夜、白髭の“おじいちゃん先生”の家に通うことになりました。定年退職した数学の先生で、まさに“弟子入り”といった形で学ぶことに。先生は「数学に天賦の才がない者は時間をかけてでもじっくり考え、問題を解かなければならない」と一言。そして、「似たような問題を数多くこなして解き方を“体”で覚えるように」と私に問題集を与え、わからなくても解答例を見て解答の過程をすべて丁寧に書き写すよう指示しました。これを日々実践した結果、次第に学習のコツがわかるようになり、高1の最後には、数学のテストで学年で1位をとるようになりました。
大学の学部選びでは、生物が好きで、政治的な人付き合いが苦手だったので、自然科学の真理を追究できる理学部生物学科に進みたいと考えました。しかし、まわりから「就職で苦労する」と言われて不安になり、担任の先生に相談したところ、東北大学の教授を紹介され、一人で話を聞きに行くことに。勇気を出して「将来、就職できますか?」と聞くと、教授は「就職先はない。しかし、心配しなくてもいい。みんな何とか生きている」と答えられました。教授の貫禄にのまれた私は、その後、生物学科を受験し、無事合格しました。
▲幼少期、父はのんびり、母はいつも忙しく動き回っていたように記憶しています。二人とも、私の進路について特に意見するようなことはなく、黙って見守ってくれていました。
東北大学に入ってよかったのは、全国から集まる多様な価値観をもった仲間と出会えたこと。バンド活動を通じて他学部の学生とも親しくなり、また生物学科は生き物好きばかりなのでマニアックな話も心置きなくできました。
4年生で専門を決める時に選んだのは、発生遺伝学の研究室。祖母が一卵性の双子だったので、幼い頃から遺伝に興味がありました。祖母が生まれた時代は、双子は不吉だとされ、生まれてすぐに引き離されました。そのため祖母姉妹は、一度も一緒に暮らしたことがないにもかかわらず、80歳になっても同じタイミングで同じ言葉を口にしたりするのです。子どもながらに、遺伝が人に及ぼす影響はすごいなと感じていました。
大学卒業後、山形大学の医学部で研究助手となり、マウスなど実験動物を用いた研究を行っていましたが、石巻専修大学の設立に伴い、東北大学や山形大学の恩師の推薦をいただき、そちらの理工学部に移りました。ところが、「動物実験はNG」との大学の方針で、研究室での遺伝学の研究の道は閉ざされました。ちょうどその頃、同僚が研究の一環で、地元の方とシカ牧場を始め、生物学科出身で山での作業に慣れていた私も、野生のシカを捕まえる手伝いに駆り出されました。様々な種類のシカを扱う中で、血液を採取し遺伝子を調べるようになりました。当時、野生動物の遺伝子を調べている研究者はいなかったため、研究テーマとするとおもしろいのではないかと考え、以来、国内外の野生動物の遺伝子調査に取り組んできました。
特に印象深いものに、*奈良公園のニホンジカの遺伝解析調査があります。シカによる農業被害に悩む奈良県からの、奈良公園のシカとその数キロ離れた地域で畑を荒らすシカの区別ができないか、という依頼が発端でした。奈良公園のシカは天然記念物のため、シカ自体から遺伝子サンプルを採取できません。そのため、たくさんの観光客がいる公園の中でシカの糞拾いをして、DNAを分析した結果、周辺にいるシカと近縁ではあるものの独自の遺伝子型を持つ集団であること、そして奈良公園のシカが1400年前から定着していることが判明しました。これは春日大社の創建年768年の頃とちょうど重なります。私達の遺伝調査により、思いがけず、奈良公園のシカが、“神の使い”として人々に手厚く保護されてきた歴史が、科学的に証明できたわけです。大いに感動しました。
*奈良教育大学、福島大学、山形大学の共同研究として、2022年1月31日、アメリカ哺乳類学会の学会誌『Journal of Mammalogy』に発表。
▲小学生の頃、双子の祖母姉妹と旅行へ出かけた時の1枚。この時、窓外の松島を見て「ああ、いい景色だね」と二人同時に発したことが、強烈に印象に残っています。
本学では、学生の挑戦を後押しする取り組みに力を入れており、「学生チャレンジプロジェクト」はその一つです。サークルや社会的活動を通して経験値を高めた学生が起業を望めば、審査を経て資金を提供しています。他にも、新たに学部相当組織の「社会共創デジタル学環(略称CID)」を開設し、1年次からアントレプレナーシップ(起業家精神)を育むプログラムを実施しています。やりたいことがあれば卒業を待つことなく、失敗を恐れず、勇気を持って挑戦してほしいと思います。
関塾生の皆さんにも、かつて高校生の私が、進路選択の際に東北大学の教授を訪ね、「将来、就職できますか?」と質問してみたように、オープンキャンパスなど大学主催のイベントに参加して、なんでも聞いてみてほしいと思います。また、保護者の皆さんには、お子さんの「あるべき姿」を保護者だけの視点で無理に決めないでほしいと思います。個々の可能性を閉ざしかねません。お子さんを信じて辛抱強く成長を見守ることを大切にしていただければと思います。
▲本学の卒業生(ベトナムでIT会社を起業)が、今秋、電子書籍『地方大学生の歩き方』を出版しました。「地方大学だからこそ伸び伸び挑戦できるんだ」との彼のメッセージに、「こういう学生が育ってるんだな」と感動しています。