• わたしの勉学時代

2025年8月号 わたしの勉学時代 亜細亜大学 学長 永綱 憲悟先生に聞く

武蔵野市にキャンパスを構える亜細亜大学は、東アジア地域で活躍できる人材の育成を目指し開設された専門学校が前身。建学の精神「自助協力」に則り、80余年にわたってアジア各国と交流を深め、学生が“アジア力”を備えて世界に羽ばたける教育を展開しています。永綱憲悟先生が学長就任以来掲げているのは“楽しくなければ大学じゃない”。この言葉通り、学生が熱中できる学びの場づくりやキャンパス環境の整備に力を注いでおられます。

【永綱 憲悟(ながつな・けんご)】

1952年生まれ。福岡県出身。法学修士(東京大学)。

76年3月東京大学法学部卒業。80年東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、84年同研究科第一種博士課程単位取得満期退学。同年4月亜細亜大学経済学部国際関係学科講師、90年同大学国際関係学部国際関係学科助教授、96年教授。2001年東京大学大学院総合文化研究科客員教授。10年亜細亜大学国際関係学部長。以降、学校法人亜細亜学園理事、評議員を歴任し、21年学長就任。24年より2期目を務め、現在に至る。専門は国際政治学、比較政治学、ロシア政治。

比較をテーマに自由研究

 生まれは福岡県東部の小倉市(現北九州市)です。保険会社に勤めていた父の転勤で、4歳で福岡市、小学4年で東京へ移り、その後再び福岡に戻って高校を卒業するまで過ごしました。小倉での思い出といえば、炭鉱で採掘した石炭の残りなどを積み上げた“ボタ山”と呼ばれるくず山で遊んだこと。うっすらではありますが、そんな記憶があります。
 転校して苦労したのは授業進度の違いです。東京の小学校に移ってすぐにローマ字のテストがあり、前の学校ではまだ習っていなかったので結果は散々。その一方、違う土地で育ったからこそ気づけたこともあります。例えば夏休みの自由研究では、東西の食文化の違いに着目して調査しました。お雑煮は福岡が丸餅で東京が角餅、ラーメンは福岡が豚骨で東京が醤油……といろいろまとめて発表したところ、高評価をもらいました。この経験は、のちに比較政治学を専門にする私の研究の原点のように思います。
 家で勉強についてあれこれ言われることはなかったです。男三兄弟の次男坊で、自由にのびのびとさせてもらいました。ただ、習字と絵の習い事には通わされて……。親はどちらも得意ではなく、わが子にはうまくなってほしかったのでしょう。しかし、その遺伝子を受け継ぐ私も手先が器用ではなく、楽しさを味わえないまま、どちらも辞めてしまいました。

入院を機に自学自習

 学校の勉強は、国語と社会は得意、数学と理科はほどほど、手先の器用さが必要な技術や家庭科は苦手といった具合で、日々の学習は学校の授業が基本でした。ですが、持病の小児喘息のために発作で学校を休むこともしばしば。中学2年の時には半年間の入院生活を送りました。そうした中でも勉強に遅れをとらずにいられたのは、病院に設けられた学校のおかげです。
 私と同じ喘息や腎臓病の子などがいる複式学級で先生は1人か2人。いろいろな学年の子どもが入り混じっていた中で年長だった私はほとんど構ってもらえず、「問題を解いたら自分で答え合わせを」と先生から教員用のガイド本を与えられました。それを見ながら勉強すると、自然と自学自習の習慣がつき、退院後も「基本的に勉強は自分でやるもの」という意識で取り組めました。受験勉強の際もさほど大変さを感じなかったのは、この習慣が身についていたからかもしれません。
 高校受験は父の転勤で戻った福岡で臨むことに。実力テストを受ける度に点数が上がっていたので、担任の先生から地元のトップ公立校、福岡県立修猷館高校を勧められました。

▲高校生になると喘息は治まり、学校生活に支障をきたすことはなくなりました。体力をつけたかったので、高校時代は剣道部で体を鍛えました。

▲小児喘息で半年間療養入院していた時、療養病棟で迎えたクリスマスでの1コマ(右端)。普段は元気なのでこんなことをして楽しんでいました(ベンチャーズのつもり)。

ラジオ講座で着実に力が

 修猷館高校に入学して感じたのは、九州大学や東京大学の合格者を毎年何人も出していたこともあり、優秀な生徒が多いなということでした。進学校だからといって特段厳しいことはなく、校風はいたって自由。生徒は皆、体育祭や文化祭を存分に楽しみ、昼夜ぶっ通しで約40㎞を歩く「十里踏破遠足」といったハードな行事も仲間と協力し合って乗り切っていました。
 大学受験は、現役で合格するのは半分ほど、浪人して当たり前という空気があった時代です。高校には附属の予備校「修猷学館」があり、まわりから“4年制高校”と揶揄されることも。私も現役で合格することが叶わず、予備校のお世話になりました。
 浪人時代の勉強でよく覚えているのは、ラジオ講座を活用したことです。教育系の出版社が制作し、どの講座もプロの講師が担当していてとてもわかりやすかったです。「自分でテキストの問題を解く→ラジオで解説を聞く→復習する」というサイクルを繰り返すと着実に力がつきました。やがて目指す大学のランクも上がり、東京大学法学部を第一志望にして受験勉強に打ち込んだ結果、合格を果たすことができました。

弁護士を志して法学部へ

 目指していた職業は弁護士です。当時、アメリカにラルフ・ネーダーという社会派の弁護士がおり、公害訴訟や大企業や政府の不正に立ち向かう姿に憧れていました。大学に入るとすぐに法律相談のサークルに入り、地域の子どもたちの世話をするボランティアにも参加。弁護士の指導を受けながら様々な支援活動に取り組みました。
 大学の授業に真剣に向き合い始めたのは3年になってから。法学部で学ぶ「公法」「民法」「政治」のうち、弁護士を目指すなら「公法」か「民法」を選択するのが順当でした。しかしボランティアを経験したことで、「弁護士になっても社会の仕組みを根底から変えるのは難しいのでは?」と考えるようになり、悩んだ末、政治の道で研究者になって世の中の役に立ちたいという結論に至りました。大学院ではソ連(当時)の研究者だった教授に師事。その分野を通して国際政治や比較政治を専門に学び、言語の習得も必要だったのでロシア語講座にも通って勉強しました。
 研究とは、ひたすら資料を追い、新たな事実を見つけ、思索を深めるのが基本です。地道さが必要ですが、そもそも私は堪え性がなく、すぐに結論を知りたいタイプ。教授からも「研究は石油を掘るのと同じ。粘り強く掘り続けないと発見できるものも発見できないよ」とよく言われていました。しかし政治学という学問はとても興味深く、修士論文を仕上げたあとは博士課程に進んで研究を続けました。

一方通行の授業を反省

 亜細亜大学に着任した頃を振り返ると、苦い記憶がよみがえります。しっかり準備をして授業をしても学生の反応が良くないのです。これでは駄目だとさらに万全の準備をして臨んでも、学生との距離はますます開くばかり。学生たちがどんどん遠くへ行ってしまう……そんな感覚でした。よくよく考えたところ、一方通行の授業に原因がありました。3か月ほど経って、授業は学生とコミュニケーションをとりながら行うものだとやっと気づいたのです。この経験は、教員人生を歩む上で大きな糧となりました。
 学長の務めは、2024年から2期目に入りました。あらためて公約に掲げたのは“アジア力”の向上です。本学は名前の通り、建学当初からアジアとの交流を深めてきました。時代の要請でアメリカへの留学制度なども充実させてきましたが、コロナ禍を経た今、アジア各国との連携をこれまで以上に強化していきたいと考えています。アジアについての知識がある、アジアの言語を使える、アジア地域の訪問体験がある、アジアに友人がいる――これらが私のいう“アジア力”です。興味がある人はぜひ本学で、自らの飛躍につながる“アジア力”を磨いてください。
 受験勉強についてアドバイスするなら、今は大学入学共通テストもどの大学の入試も、付け焼刃の勉強では太刀打ちできません。問われるのは暗記力ではなく「思考力」や「表現力」。その土台となるのが「読む力」と「書く力」です。10代はまだまだ頭がやわらかいですから、本をたくさん読めば「想像力」も身につきます。こうした力を備えておけば、入試だけでなく、社会に出た時も必ず自分のプラスになるでしょう。

▲「親の勧めで仕方なく入学した」という教え子が、卒業式の日に「先生のゼミで学べて良かったです」と一言。教員冥利に尽き、学生の力になれたことを嬉しく思いました。