• わたしの勉学時代

2023年8月号 わたしの勉学時代 愛媛大学長 仁科 弘重先生に聞く

松山市にキャンパスを構える国立大学法人愛媛大学は、文理あわせて7学部6研究科を擁する総合大学。「学生中心の大学」「地域とともに輝く大学」「世界につながる大学」を創造することを大学憲章に掲げ、人間性豊かな人材を社会に輩出することを最大の使命としています。学長の仁科弘重先生は、中学・高校時代、理系の数学や物理だけではなく文系の国語や社会なども得意な“オールラウンドプレーヤータイプ”だったそうです。

【仁科 弘重(にしな・ひろしげ)】

1954年生まれ。東京都出身。農学博士(東京大学)。

78年3月東京大学農学部卒業、80年同大学大学院農学系研究科農業工学専門課程修士課程修了。同年4月東京大学農学部助手。86年愛媛大学農学部助教授、98年教授、2011年農学部長、12年植物工場研究センター長、15年理事・副学長を経て、21年4月愛媛大学長に就任。専門は農業環境工学、植物工場。

算数の計算が速かった

 生まれは東京都豊島区の池袋です。父は会社員、母は専業主婦という家庭で育ちました。一人っ子だったからかもしれませんが、特に厳しくしつけられた記憶はなく、かといって甘やかされることもなく、何でも自由にさせてくれましたね。
 小さい頃によくやったのはソフトボールです。小学校から帰ると公園に集まり、日が暮れるまで、友達とボールを打ち、投げ、走り回っていました。小学校の勉強で得意だったのは算数の計算です。担任の先生が面談の時、母に話したエピソードがあります。「仁科君は私が計算のプリントを配り終えて教壇に戻るのと同時に、『できました』と言って持ってくるんです」と。先生が感心されていたよと聞かされました。塾には行かず、家で『自由自在』などの参考書で勉強していました。国語、算数、理科、社会はずっとオール5。6年の時の統一学力試験は、2回とも学年トップでした。

増進堂・受験研究社発行の学習参考書。基礎から難関校受験までに対応しており、創刊以来70年で累計2600万部の実績を誇る。

▲夏休みの宿題は、休みに入ってすぐ、2~3日で済ませていました。早く終わらせたからといって、他の勉強を強いられることはありませんでしたね。

先生に勧められて中学受験

 中学は公立校に進むつもりでしたが、小学5・6年時の担任の先生の勧めで私立を受けることに。選んだのは中高一貫校の武蔵高等学校中学校です。制服はなく、他の学校と比べて自由度が高いところに惹かれました。それと、学校見学に行った時、校内を流れる小川でオタマジャクシを捕まえて持ち帰り、「なんだか楽しそうな学校だな」という印象を持ちました。
 入学して思い知ったのは、「自分は案外普通の子ども」だということです。小学校の成績はトップクラスだったので、自分は優秀だと勝手に思い込んでいたのですが、上には上がいるもので、全教科で常に上位にいる同級生、理数系が天才的に強い生徒、囲碁ばかりやっている者、中高生ながら学生運動に力を注ぐ先輩……。優秀かつ個性豊かな生徒がたくさんいて、彼らの存在は私にとってとても大きな刺激になりました。
 学校行事で記憶に残っているのは、約40㎞の道程を歩く「強歩大会」です。電車で埼玉県の所沢まで移動し、グループに分かれて学校がある東京都練馬区まで歩いて帰ってくるという伝統行事で、体力と気力が必要でした。ですが、学年が進むとだんだんと慣れてきて、こっそりバレーボールを持参して途中の公園で遊んだり、のんびりお弁当を食べたりして、ピクニック気分で楽しんでいました。

感性を育めた6年間

 クラブ活動は物理部に所属。傾斜面に物を滑らせて摩擦力を調べる実験に明け暮れました。とはいえ、中学の時は高校の先輩を手伝うだけの実験要員で、何の目的でそんなことをしているのか、全くピンと来ていませんでした(笑)。
 授業は、どの教科も独自色が強いものでした。文部科学省(当時は文部省)検定の教科書は使わず、オリジナルのテキストや、梶井基次郎の小説『檸檬』の文庫本を教科書代わりに使う国語の先生も。ハイレベルな授業が多かったですね。
 数学と英語はクラスを半分に分け、さらに5人程で班をつくり少人数で授業を受けていました。その数学の授業で私の班が良い成績を収めたことがあり、先生が「これからは仁科君を先生にして勉強しなさい」と言ったので、“仁科先生”というあだ名がついたことがあります。実際に教えることはなかったので名ばかりの先生でしたが(笑)。好きだったのは数学と物理。文系科目も不得意ではなく、いわば“オールラウンドプレーヤータイプ”だったと思います。
 中学と高校の6年間で、自分の核となる感性を育むことができました。中高時代に経験した様々なできごとは、その後の私の人生に大きな影響を及ぼしていますね。

 

▲高校生の時、十数人でバレーボールチームを結成。
その仲間たちと撮った1枚です(前列左が仁科先生)。

注目され始めた省エネを研究

 大学は一浪して東京大学に入りました。農学部に進んだのは、その分野を究めたかったというより、国家公務員を目指していたというのが正直なところです。農学部の学生は省庁に入る人が結構いて、私も将来は土木関係の仕事に就きたいと思っていました。4年次で土木系の研究室を希望したのですが、残念ながらじゃんけんで負けてしまい、第2希望でも敗退。結局、第3希望の環境調節工学研究室に入りました。
 ですが、いざ研究を始めると、植物栽培に関わる環境調節や工場施設の学びは非常におもしろく、ガラス温室の蓄熱を研究テーマに選びました。冬は、晴れていれば昼でも太陽光のおかげで室温は必要以上に高くなります。その熱を蓄え、気温が下がる夜にいかに効率良く暖房に活用するかという研究で、学部を終えた後は大学院へ。環境問題は今、世界的に大きなテーマですが、当時はようやく省エネが注目され始めた頃。学会では関心を持つ人も多く、発表を終えた私のところにはもっと話が聞きたいと人が訪れてきました。環境問題が注目される以前の1980年代としては、先進的な研究に取り組めたと思います。

▲大学で苦労したのは第二外国語のドイツ語です。単位の取得が危ぶまれ、トイレでも必死に単語を覚えました。この時の苦い経験は後々の教訓になりました。

今やるべきことを着実に

 振り返ると、大学院生時代は恵まれた面があったと感じています。研究室で省エネをテーマに扱えたのは、卒業生が准教授として戻って来られたことで、新たな分野にチャレンジできる環境が整ったからでした。修士を終える時は、指導教官の先生から「助手として来てほしい」というお話をいただき、仕事をしながら研究を続けることができました。
 准教授として愛媛大学に赴任したのは31歳の時。以来、人生の半分以上を愛媛で過ごしています。本学は、地域創生に貢献し、地域における知の拠点としての役割を果たすため、実践的な取り組みをいろいろと行っています。そのひとつ「えひめ学生起業塾」は、起業を目指す学生を支援するプロジェクトで、社会で活かせるスキルを磨くための講座の企画など様々な活動をしています。また、2023年度入学生から「未来思考支援科目」を必修科目としました。今後、地域や国内外で起こり得る課題の解決に貢献できる人材となれるよう、基礎知識と思考力を身につけるためのカリキュラムです。未来を担う学生には、こうした学びを通して、変化の激しい時代を生き抜く力を育んでほしいと思っています。
 「やりたいことが見つからない」という声を時々耳にしますが、今やらなければいけない目の前のことを頑張れば、やりたいことは自ずと見えてくるのではないでしょうか。例えば教科の勉強なら、どう工夫すればおもしろく学べるかを考えることが大切です。努力し、結果が出て、まわりに評価されると誰でも嬉しいはずです。その“嬉しい”をきっかけに、やりたいことが見つかることもあるでしょう。目の前の小さなことができてこそ大きな目標に向かえます。努力を惜しまず、一歩ずつ前進してください。