• わたしの勉学時代

2020年12月号 わたしの勉学時代 茨城大学長 太田 寛行先生に聞く

1949年に開学した国立大学法人茨城大学は、古くから水と緑と歴史の街として栄える水戸市を中心に、日立、阿見と3つのキャンパスを擁する総合大学です。知の拠点として地域社会と協力しながら、学生がたくましく育つ大学、世界で特色が輝く大学を目指し、「茨城大学コミットメント」「iOP」などの様々な取り組みを行っています。今回は、2020年4月より学長を務める太田寛行先生にお話を伺いました。

【太田 寛行(おおた・ひろゆき)】

1954年東京生まれ。東京都出身。農学博士(東北大学)。

77年3月東北大学農学部卒業。79年3月同大学大学院農学研究科博士前期課程修了、82年3月同後期課程修了。日本学術振興会奨励研究員を経て、84年4月より岡山大学歯学部助手、86年9月より87年6月まで文部省在外研究員としてフローニンゲン大学に滞在、94年より助教授。97年8月より茨城大学農学部助教授、2002年より教授。10年同大学農学部長・大学院農学研究科長、14年副学長(大学戦略・IR)、16年理事・副学長(教育統括)と歴任し、20年4月より現職。専門は土壌肥料学、微生物生態学。

小学校で理科教室のメンバーに

 生まれ育ったのは、東京都世田谷区の二子玉川です。当時は、現在の賑わいとは別世界のような田園風景が広がっており、川や林でザリガニやカブトムシなどを捕って遊びました。父と母、弟の4人家族で、両親は精肉店を営んでいました。私と弟も長期休みの間に自転車で配達をするなど、よく店を手伝っていましたね。ただ、小さい頃は体が弱く、季節の変わり目には喘息の発作が出て病院通いをしていました。小学5年の時、東京オリンピックに学校全体で観戦に行く予定だったのですが、私は発作が出て行けず、とても残念だったことを覚えています。小学校でもうひとつよく覚えているのは、6年の時に理科教室のメンバーに学校代表として選ばれたことです。いくつかの小学校から2人ずつ選ばれて、皆で理科の実験などを行うもので、土曜の午後、半年間ほど通っていました。当時は理科より社会の方が得意で、選ばれた理由はよくわからないのですが、ガラス細工の実験をしたり、自由研究で発芽について調べたり、いろんなことを体験できました。
 中学校では軟式テニス部に入り、練習に励んだことで体力がついて喘息の発作が減りましたし、試合に出ることで内向的だった性格も随分変わりました。勉強はやはり理科と社会が好きで、成績も比較的良かったです。また、英語の先生は文法を教えるのが大変上手で、1年生の頃からしっかりと文法を身につけることができました。塾に通ってはいましたが、受験勉強のためというよりも、ただ仲間と一緒に通うのが楽しかった、という感じでしたね(笑)。

▲小学校の理科教室で習ったガラス細工でのスポイト作りは、大学教員になってからも続けていました。ガスバーナーとガラス管だけで、簡単に作ることができるんですよ。

悔いを残さないために浪人

 当時、都立高校は*1学校群制度に変わって3年目で、私は学区で3番目のランクの23群を受験し、希望していた都立大附属高校に運良く入学できました。この高校時代で人生が大きく変わりました。当時は学生運動が盛んな時期で、都立大学と同じキャンパスにある附属高校でも上級生が校舎を封鎖し、入学してすぐ、授業がなくなってしまったのです。授業がないことも衝撃でしたが、それよりも、再開後に授業を大きく変更された先生がいらっしゃったことが私に影響を与えました。世界史の三木亘先生は「受験勉強は、参考書を自分で勉強しなさい」と仰って、「世界史におけるユダヤ人」というテーマで授業をされました。三木先生は後に大学の教授になられましたが、高校での授業もほとんど大学の講義のようでした。ユダヤ人の視点から歴史を見ていくことで、それまでの日本だけを中心とする考え方ではなく、世界の広さや多様性に気付けました。その影響で読む本の傾向も変わり、西洋の哲学書などに挑戦するようになりました。それらについて語り合える友人がいたのも良かったです。
 実は、高校3年になっても、受験勉強はやりませんでした。両親に、浪人して、残りの高校生活は、読書やテニス部の活動、友人との交流など、高校生活に悔いを残さないように過ごすと宣言して、許可を得たのです。将来や進路などに口を出さず自由にさせてくれる両親で、本当に寛大でした。3年間クラス替えがなく、友人たちと学校行事など多くのことを共に楽しめました。浪人を決めたとはいえ、受験はしておいた方がいいだろうと母に言われ、*2東京教育大学農学部を受験しましたが、もちろん不合格。予備校に通って本格的な受験勉強を始めました。高校生活に悔いがなかったので、受験勉強に充分集中でき、翌年東北大学農学部に合格しました。

*12~3校の高校で群を作り、その中で学力が均等になるように、合格者を本人の希望にかかわらず振り分ける入試制度。
*21978年に閉学、筑波大学に受け継がれる。

▲高校の記念祭(学園祭)では、最終日の夜にファイヤーという、校庭で火を囲み、皆で肩を組んで歌を歌う行事があり、とても楽しかったです。代々受け継がれてきた伝統ある行事で、大学の研究室に偶然高校の先輩がいらっしゃったのですが、最初に会った時「あの時の歌を覚えていますか?」と聞かれましたね。

足もとの地面に様々な微生物がいると知って

 進路については、化学が最も自然に勉強できたので、そちらの方面に進もうと考えていましたが、浪人時代に微生物学に興味を持ち始め、「プラスティックを食べる微生物」の話を知って、この分野だと確信しました。また、東京を離れて自立したいとも思っており、高校3年の修学旅行で訪れて楽しかった記憶のある東北地方を進学先に選びました。
 3年生になって、専門課程の授業で土壌微生物の話を聞き、自分の足もとの地面の中に様々な微生物が生きているのだと考えると、どんどん興味がわいてきました。4年生では応用微生物学研究室に所属したのですが、東北大学の農学研究所に土壌微生物研究室があると知り、そちらで卒業論文の研究をしたいとお願いして、様々な先生のお力添えによって許可をいただくことができました。土壌微生物研究室では、服部勉先生に師事し、栄養がない土壌でしか増殖できない「低栄養細菌」について水田土壌を中心に研究しました。卒業論文では、低栄養細菌を様々な土壌環境から分離させ、修士論文ではそれらにどのような学名がつくかを分類し、博士論文では新種の菌を発見して命名することができました。
 当時、学科33人中、修士に進学する人は10人程度いましたが、博士に進むのは1~2人でした。入学当初から修士課程への進学は決めており、修士で研究をするうちに、博士課程まで進まないと研究が終わらないと思い、博士課程へ進学しました。その結果、新種の発見という業績を残せたことは、研究者としての大きな自信になりました。

▲研究時代、土壌微生物研究室での1枚。

土壌から口内、再び土壌へと

 博士号をとった後は、また少し違う分野に研究を広げたいと思い、日本学術振興会の奨励研究員として、理化学研究所や岡山大学で低栄養細菌の分類学や生化学の研究を続けました。その後、岡山大学歯学部の助手に採用され、歯周病の細菌学的研究へと転じました。妻には「土の中から口の中へ、簡単に転向なんてできるの?」と言われましたが、大学院時代に培った研究方法はどんな分野にも通じると考えていましたし、実際に日本では分離例のなかった病原菌を分離することもできました。この助手時代に、文部省の在外研究員としてオランダのフローニンゲン大学に滞在する機会を得て、現地の大学院生らと交流できたことも、非常に貴重な経験となりました。
 岡山に戻って約10年後、歯科医ではない者が歯学部の世界で続けていく限界を感じていた頃、大学院の時に面識のあった先生からお声がけをいただいて、茨城大学へ。土壌の世界に戻ってきて、今度は火山の噴火跡地にどんな微生物が棲み始めるのかという研究を、学生たちと一緒にやりました。
 小さい頃から興味を持ったことを次々と追いかけていくタイプで、成長してからもあまり変わりませんでしたが、結果としてそれぞれの分野で業績を残すことができましたので、自分には合っているやり方だったのだろうと思います。

未来を思い描き、実現する

 学長として就任して、「学生が“活気”にあふれ、教職員が“やる気”に満ち、地域が“元気”になる、多様性を活かした大学の実現をめざして」というスローガンを掲げました。学生の“活気”とは、主体性の表れだと思っています。茨城大学では、大学3年生の第3クォーター(夏休み後、後学期の前半)は、原則として必修科目を設定せず、海外研修やインターンシップなど学生の主体性に任せた活動ができるiOP(internship Off-campus Program)制度を設け、素晴らしい活動には「iOP AWARD」を授与し、表彰しています。また、意見を交わしやすくするために担任制を設けるなど、教員と学生のコミュニケーションも重視しています。どちらも、学生たちが思い描く未来の実現を支援するためのものです。
 皆さんには、将来の見通し、自分がどうなりたいのかという未来を思い描き、それを実現できるような力を身につけてもらいたいと思っています。そのためには、小中高の学校での学習や読書、家族や先生、友達といった周囲の人との交流などを通して、様々なことを知ることが大事です。それらの中から、自分がいいと思ったものを選び、伸ばしていってください。いいと思うことは一人ひとり違って当然で、皆同じということはまずありません。いろんな個性を尊重し、認め合っていくことは、現在の多様化、国際化している社会で求められていることでもあります。様々なことから刺激を受け、個性を磨き、独自の生き方を作っていってください。そして、多様な人が多ければ多いほど、世の中はおもしろく、素晴らしいものになるでしょう。