関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2020年2月号 わたしの勉学時代

自然の中でのびのびと外遊び

 「よく学び、よく遊べ」という言葉がありますけど、私の幼少時代は「よく遊び、よく遊ぶ」でした。木登り好きのおてんばで、当時のことを人に聞くと、私が中心となって近所の子どもたちを連れ、外を駆け回っていたそうです。生まれ故郷の山口県山口市は県庁所在地でありながら自然にも恵まれたところでしたので、キャベツ畑で虫を捕ったり、川でカニや魚を捕まえたり、日が暮れるまで外遊びを楽しんでいました。
 家族は父と母、妹と私の4人で、両親の躾はそれほど厳しくはなかったですね。家族旅行など一緒に楽しく過ごす時間が多い家庭でした。ただ、「夜更かしをしない」「早寝早起きをする」といった当たり前の生活習慣は母がきちんと見てくれていました。
 父は祖父の印刷業を継いでいましたが、大学時代を過ごした東京で生活したいという思いがあったようで、家業を整理し、私が小学校2年の時に家族で首都圏へ移りました。「すごい都会なんだろうな!」と、東京への期待を抱いていたものの、最初に住んだ川崎市の生田は山口市よりも田舎でした。私の中にあった大都会のイメージはガラガラと音を立てて崩れてしまいました(笑)。その後、小4で調布市に引っ越すのですが、どちらの町ものんびり過ごせる環境だったので地方出身の私も自然と生活に馴染めました。

小学校の頃に憧れた職業は通訳です。当時は気軽に海外旅行へ行ける時代ではありませんでしたが、子どもながらに“まだ見ぬ世界”へ思いを馳せていました。

歴史ノートを作るのが楽しみ

 小学校の勉強は社会が得意で、日本史が大好きでした。学校の授業も楽しかったですし、家に帰れば百科事典を開き、興味のあるところを自ら大学ノートに書き写していました。趣味で集めていた切手の中から法隆寺の絵柄を選んで挿絵として貼り付けるなどして、誰に見せるわけでもないのですが、「日本史ノート」を作って満足していました。家族旅行に出かける時はあらかじめ訪問先の歴史を調べ、実際に足を運んでどう感じたかなど、紀行文にまとめていましたね。
 中学に入って夢中になったのは音楽活動です。学校の部活ではなく、音楽好きの友達同士で集まって楽しむ趣味の活動でした。私は後ろで歌を歌っているくらいでしたが、文化祭で演奏できる機会もあったので、一人ひとりが情熱を注いでいました。中学時代の成績はそこそこ良かったという感じでしょうか。どの教科もそれなりに得意で、社会は相変わらず大好き。数学も好きでした。きちんと説明ができる教科との相性がよかったのでしょうね。社会は暗記科目と思われがちですけれど、実はそうではありません。歴史の事象には必ずストーリーがあるので、それを楽しみながら勉強すればおもしろいと感じられるはずです。
 高校受験は、都立立川高校を目標に、一人で取り組みました。年上のいとこに聞いた「問題集をたくさんやればいい」という言葉を信じ、学校の授業は理解できていたので、どの教科もひたすら問題を解きました。

世界史の先生にこっそり対抗

 集中すれば何とかなる――。これが私の勉強のスタイルでした。例えば高校の入学時は「みんな頭が良さそうだな……」と感じてスイッチが入りました。がんばって勉強して、1学期は良い成績を取ったのですが、そこで「なんだ、大丈夫だ」と安心してしまいました。その後はテニス部の活動や学園祭など、学校生活をとことん楽しみ、高3で受験勉強を始めるまで成績はずっと低空飛行でした(笑)。
 それでも勉強は嫌いではなく、好きな世界史を通じて物事を深く考えるおもしろさに気付くことができました。先程お話ししたように歴史の事象には必ずストーリーがありますが、そのストーリーの立て方はひとつではなく、見方を変えると別のストーリーが生まれます。「教科書に書いてあることがすべてではない」。そう思うようになり、違った視点で物事を捉え、どう説明すればよいのか考えを巡らせました。
 この頃に大きな影響を受けたのは世界史の先生です。マンガを交えたオリジナルプリントで歴史の流れをわかりやすく説明してくださる授業は今でもよく覚えています。それに感心しつつ、先生に対抗する形でこっそり自分なりのストーリーでプリントを作っていました。「先生のよりこっちの方が流れを覚えやすいよ」と友達に見せたり、妹に教えたりして(笑)。本もいろいろ紹介してくださったので、高2で読んだ『古代遊牧帝国』(護雅夫著/中公新書)がきっかけで西アジアやトルコの歴史に興味を持ち、大学では史学を学ぼうと決めました。

今はインターネットで世界を疑似体験できる時代ですが、実際に海外に出ないと得られないことはたくさんあります。他国に興味を持ったなら将来はぜひ世界に飛び出してください。

イスタンブルは第二の故郷

 都内で史学科がある大学を探し、お茶の水女子大学に進学しました。1年次の授業では東洋史、西洋史、日本史のすべてを必修で受けたのですが、これが後々役に立つことになります。歴史の研究は原典史料を読むことが基本です。そこで自分が専門にする地域の言語が必要になるのですが、入学当初はまだ習得できていません。ですから日本史などの授業があったおかげで、親しみのある漢文や古文の史料を通じて研究の基礎や手法を学ぶことができたのです。
 2年生になると本格的にイスラム史の勉強を始め、同時にアラビア語やトルコ語の習得にも努めました。しかし、マイナーな言語なので学べる場所がほとんどなく、自学するにも今のように辞書や参考書は充実していません。トルコ語をどこかできちんと学びたいと思っていたところ、幸運にも、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の夏の講習会でトルコ語講座が開かれたのです。この時に教わった先生には講座終了後もお世話になり、イスタンブルの再建史をテーマにした卒業論文を書き上げるにあたり指導もしていただけました。最初から研究者を目指していたわけではなく、将来は学校の先生になりたいと思っていましたが、卒業を前に4年間の学びでは物足りないと感じ、大学院の修士課程に進むことを決心。優先したのは「もっと勉強したい」という正直な気持ちでした。修士を終える頃には、留学をして現地でも学びたいと思うようになり、東京大学の博士課程に進学、この時に初めて留学を経験しました。当時の文部省が募集していた派遣留学生に運よく選ばれ、イスタンブル大学で2年間学びました。
 もちろん自ら望んで留学に発ったわけですけど、最初は本当に苦労しましたね。トルコ語は学部時代から勉強していたものの、原典史料の読解が目的だったので、古文書は読めても日常会話はほとんどできませんでした。ただ、当時は日本人留学生が珍しかったので、親切でおせっかいな現地の学生がいろいろ面倒を見てくれたんです。「私の姉のところに住んでいいよ!」という学生に甘えて、少しの間お世話になったこともありました。彼女を含め、留学時代に親しくなった皆とは今でも親密な交流が続いています。イスタンブルは私の第二の故郷です。

留学中の林先生。
トルコのアンタルヤにて。

異文化を認め合うことが大事

 現在、東京外国語大学の学長として“1人2回の留学”というスローガンを掲げています。外大という特色上、入学する学生のほとんどは自ずと他国に目を向けていますが、ただ漫然と留学するのではなく、1度目は短期でも構わないので実際に異文化に触れ、意欲を高めた上で、可能であれば2度目に明確な目標を持った長期留学をしてほしいと思っています。
 若い世代の皆さんにとって、他国の文化を受け入れる姿勢はとても重要です。日本には“ 阿吽の呼吸”でお互いが黙っていても意思疎通を図れる文化がありますよね。しかし、海外に出るとそれはほとんど通用しません。他国にはそれぞれの文化や習慣があり、それが私たちのものと異なっていても決して間違っているわけではないのです。そうした違いを肌で感じることはやはり大切なこと。自国の文化だけが正しいと思っていては自己中心的な感覚に陥ってしまいます。
 今、日常の場ですぐ隣に他国の人がいることがもう当たり前になっています。日本が他国の方を必要とする時代に入っていますし、日本に関心を抱いた人は今後もどんどん来日するでしょう。そこでコミュニケーションをとる鍵となるのは、お互いが持つ文化の背景にあるものを学び、認め合うことです。
 「多様性」という言葉は少し難しく感じるかもしれませんが、わかりやすい言い方をすれば、「いろんな人がいて、仲良くできるのは楽しい!」ということです。その気持ちを共有するためには、自国を中心に考えるのではなく、対等な立場でお互いを尊重し合う関係を築くことから始める必要があります。異文化共生がますます進むこれからの社会においてとても大切なことです。

チアリーディング部RAMS

 東京外国語大学では、体育系48団体、文化系40団体のサークルが活動しており、舞踊、ダンス、国際交流やボランティアなど東京外国語大学ならではのサークルもあります。その中でも、チアリーディング部RAMSは全国的に見ても珍しい男女混成のチーム。2018年には、夏の「JAPANCUP 2018日本選手権大会」、冬の「全日本学生選手権大会」と続けて、国公立大学で史上初となる決勝進出を果たしました。小中高からの経験者が多く所属する私立の強豪校が競い合う中、RAMSは部員の9割が未経験者でありながら歴史的な快挙を遂げました。部員の中には日本代表に選ばれるような実力を持つ学生もおり、総勢約50名の部員が更なる挑戦に向けて日々練習に励んでいます。

キャンパス中央広場での実演。