関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年9月号 わたしの勉学時代

心配性の父と快活な母

大阪に生まれ、小学1年生の時に京都の伏見に移り住みました。税務署勤務の父と、専業主婦の母、私の3人家族。父が40歳、母が20歳の時に生まれた一人息子でしたので、父にそれはそれは可愛がられて育ちました。父は体が丈夫でないこともあり、定時に帰宅していましたので、碁や将棋やキャッチボールをしたり、喫茶店に連れて行ってくれたりしました。小学4年生の時、私は交通事故に遭い、頭に大けがをして、3週間入院したことがありました。その間、父は仕事に行かずにつきっきりで看病してくれました。しかし、子どもながらに「そんなに休んで大丈夫かな?」と少し不安になったことを覚えています。
母は、宝塚歌劇と映画が大好きなロマンチスト。母に連れられ、訳もわからないままに宝塚や映画をよく見ていました。また、母は、明るく頑張り屋で、世話焼きでした。誰にも挨拶をしない近所の人が、ある時から、母にだけ挨拶をするようになりました。母に「どうして?」と聞くと、「相手が挨拶しなくとも、ずっと挨拶していただけ」と笑って教えてくれました。その時、母のすごさを知ったような気がしましたね。
そんな父母から「愛されている」という絶対的な安心感に包まれた幼少期でしたが、その分、他人とコミュニケーションをとるのは下手だったかもしれません。しかし、小学校入学とともに伏見のマンモス団地住まいとなり、三角ベースの野球などを通し、自然とコミュニケーションのとり方を学んでいったように思います。

高校入学と同時にラグビー部に入部し、勉強と部活の両方頑張ろうとする私に、心配性の父は「体をこわすから、勉強しなくていい」と言って、よく勉強のじゃまをしに来ました(笑)。

記憶力が悪いので……

小学生の頃は、母の勧めで英会話と書道の教室に通いましたが、どちらも物になりませんでした。とにかく記憶力が悪く、中学生になってからも、英語は苦手でした。得意の数学でも、よく公式を忘れては、公式を自分で導き出すところからやっていましたね(笑)。ただし、「おもしろいなぁ」と心動かされるものがあれば、結構記憶できるんです。たとえば、歴史の物語は好きでしたので、少し厚めの参考書を読んで楽しみ、次に「最低限これだけは」といった薄い問題集を解きながら整理する、という勉強法を自分なりに身につけました。世界史、日本史、生物などはこの勉強法でいけましたが、地理、化学、地学はダメでしたね。

自分に合う勉強法との出会い

小学生の頃は、クラスの委員長をしたり、親子3人で宿題をしたりするような“いい子”でしたが、中学2年の頃、いい子でいることがなぜかしんどくなり、親や教師に対して距離をとるようになりました。それとともに、「オール5」を目指すのではなく、優先順位をつけて、成績の悪い科目があってもよいと考えるようになりました。高校1年の夏休み、数学と英語に集中し、特に因数分解や方程式の問題と、英語の文法の基本を徹底的に勉強したのは基礎力がついたと思います。しかし、結局は好きな科目を優先し、しなければならない苦手な科目は後回しになり低い点数のままでした。のんびりとした土地柄もあり、希望する公立大学への合格はかなわず、浪人して予備校に通うことになりました。
 しかし、その予備校の勉強法が私にぴったりと合ったんです。たとえば、数学では、「3問のうち解けそうな1問をまず選び、それだけに一生懸命になり、わからなくても1時間は考えなさい」と指導されました。これが実は、京都大学の入試問題攻略法に通じるとともに、私にしっくりくるものでした。解けなくても1時間以上考えるという経験、そして集中して考えるだけでなく、少しリラックスしてボーッと考えることも必要だとわかったことは、数学だけではなく、カウンセリングを始め、後々の人生において役に立ちました。英語では「忘れていい。とにかく英語にどんどん触れなさい」という指導です。また、その英語の先生は、バートランド・ラッセル(*1)の社会批評や哲学的エッセイなどを、読解問題の長文に用いたので、内容自体に興味を引かれ、辞書を引くのが苦にならなくなりました。
 勉強を習慣化するよう心がけてもいました。ルーティン化ですね。たとえば、夕食でテレビのニュースを見終わると、コーヒーを飲み、机に向かい、最初に苦手な英語を少なくとも1時間は勉強するといったことです。
 浪人時代は本当に勉強に集中し頑張りましたね。勉強することが充実していました。この後の人生で、勉強や仕事に打ちこめる自信となりました。
 関塾生の皆さんも、中・高校生くらいになると、きっと勉強や進路について考える機会がふえ、もどかしく思うことがあるでしょう。ですが、結果を出すことを慌てないでほしいですね。まずは、自分なりに勉強を楽しむコツを身につけることです。

*1イギリスの哲学者、論理学者、数学者であり、社会批評家、政治活動家。ノーベル文学賞受賞者。

小3の頃から『マガジン』『サンデー』を夢中になって読んでいて、今もマンガは大好き。鳴門教育大学の図書館にあるマンガの8割は私が入れたものです(笑)。

人生を変えた出会い

大学に入った頃の私は、心理学、教育学、経済学、社会学に興味を持っていましたが、どのような仕事に就きたいという希望は、特にありませんでした。そして、当時の京都大学では入試の点数が他の学部の合格点より上ならば、転学部することができましたので、このまま教育学部に残るか、他の学部に移るか、数か月の間、大いに悩みました。ついに、経済学部に移ることを決意したのですが、なんと転学部届けの提出期限は過ぎており、2回生以降も教育学部に残らざるを得なくなりました。
 しかし、人生捨てたもんじゃありません。この時、教育学部に残ったことで、人生の師となる河合隼雄先生(*2)と出会えたんですからね。河合先生は、私が入学した年に教育学部の助教授として着任され、翌年に「臨床心理学概論」の講義を担当されました。この講義を受け、私の人生は決まったように思います。先生は心理療法において一つの学派を絶対視することなく、心とカウンセリングについて話しておられました。その内容が素晴らしいだけでなく、何より先生ご自身の魅力に惹きつけられました。
 河合先生は、カウンセリングができて、社会性があって、大変、真面目な方なんですが、息抜きの仕方が独特でした。さらりと明るい嘘をつかれるんです(笑)。「ウソツキクラブ」というものまでありました。それこそ忘年会の時などに嘘ばかりつかれるんです(笑)。最初はみんな天下の河合先生が嘘をつくなんて思わないから目を白黒させているんですが、博士課程を修了する頃にはどの部分が嘘かが大体わかってくる。そうなったら「就職してもいい頃だね」となるわけです。当時の様子を描いた本(*3)が出版されています。実は助手時代の私もウソツキクラブの〝山下某事務局長〟として登場しているんですよ(笑)。

*2臨床心理学者。スイスユング研究所で日本人として初めて、ユング派分析家の資格を取得。国際箱庭療法学会や日本臨床心理士会の設立など、国内外において心理療法の実践と研究に貢献。日本文学、児童文学、神話、音楽など文化全般への造詣も深く、文化庁長官も歴任した。
*3『ウソツキクラブ短信』(河合隼雄・大牟田雄三著/講談社プラスアルファ文庫)

山下先生4歳の頃、お母様との一枚。

子どもの心と大人の知恵

不登校のお子さんと数年かけて面接していると、彼または彼女が学校に通えるようになったり、新たな自分の道を歩み出したりする瞬間というのは、まさに蓮が泥の中から美しい花を咲かせてくれたかのような感動を覚えます。大学院生時代、カウンセラーとして思い悩むことの多かった私も、そのような素晴らしい体験を積み重ねるごとに、じっくりと子どもや親と向き合えるようになっていったように思います。子どもの持つ可能性が信じられるようになるのでしょうね。
 将来、教師や臨床心理士・公認心理師になりたいと思っている人は『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)を読んでほしいですね。そして、30歳を過ぎてから、ぜひもう一度読んでください。きっと、新たな発見や感動があることでしょう。王子さまのように「子どもの心」を大切にしながら、「大人の知恵」を身につけてほしいものです。
 また、「人間が好き」「自分が好き」であることも大事です。自分の欠点がわかり、不甲斐なさやダメさに涙しながらも、自分のいい所にも気付いており、「こんな私でも私は私が好きだ」と思えていることは大切です。自分自身を肯定しているからこそ、他人を肯定し尊重できるのです。
 関塾生の皆さんは、今のうちから、自分のいい所、人のいい所を見つける癖をつけておいてくださいね。そのためには、温かくて長い目で、自分を見つめ、人を見ることです。

教師教育のリーダー大学

国立の教員養成系大学・学部が、全国で44校ある中で、鳴門教育大学は「教師教育のリーダー大学」を自負し、人間的魅力があり、学び続ける教員の養成に取り組んでいます。学部卒業生の教員就職率は2010年から8年連続全国第一位を誇ります。また、同大学が中心となり、宮城、上越、福岡の各教育大学、国立教育政策研究所、日本PTA全国協議会等と連携し、いじめ防止支援プロジェクトに取り組んでいます。
 さらに、小学5年生から中学3年生を対象に「未来のノーベル賞学者を育てよう」と、2017年度から、科学技術振興機構(JST)と進める「ジュニアドクター発掘・養成講座」では、個人の発達段階に応じた才能育成プランを実施。先ごろ数学分野で新発見をした中学生も現れました。

キャンパス中央の自然棟。