関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年8月号 わたしの勉学時代

足の甲に残った干潟の砂紋

私が生まれ育った北海道深川市は、石狩川の上流、旭川の近くにあります。冬はとにかく寒くて、マイナス20℃になる日も珍しくありません。雪もよく積もりましたよ。私が幼い頃は、まだ自家用車を持つ家はなかったので、特に除雪をする必要がありませんでした。放っておくと、雪はすぐに建物の2階近くまで積もります。外を見ると、道行く人々が皆、一階の天井と同じくらいの高さを歩いていました。そんな厳しい冬の最中でも、私たち子どもはよく外で遊んだものです。雪合戦と雪スケート(*1)は定番でした。
ただ、やはり寒いものは寒いので、冬はいつも着ぶくれていました。家の中でも重ね着です。下着は2枚必要でした。ふつうの下着の上に、毛糸で編んだ冬用の下着を身に着けていたんです。股引には毛糸の長靴下を重ね、その上からズボンを履いていました。毎年春になって長靴下を脱ぐと、足の甲にはくっきりと跡がついていたものです。まるで干潟の砂紋のようでした。その跡が消えかかる頃には秋が巡ってきます。そうなると再び長靴下生活に戻るので、足の模様は年中残ったままでしたね(笑)。

*1金属の歯をバンドで長靴に固定し、凍結した路面などで滑る遊び。

毛糸の下着は、古くなったセーターをほどいて編んでもらったものでした。デザインや色もちぐはぐだったので、実はあまり好きじゃなかったです(笑)。

父の夢を継ぎ、将来は医師へ

我が家は両親と祖母、2歳上の姉の5人暮らしでした。一時は、父の末の妹である叔母とも同居していたのを覚えています。父は10人きょうだいでしたから、歳の離れた彼女はまだ実家にいたんですね。そこで母は、家計を助けるため、小さな店を切り盛りしていました。私もよく店番をしたものです。タバコや菓子を売る窓と、ハガキや切手を扱う簡易郵便局の窓が分かれていて、呼ばれたほうへ顔を出して応対していました。中学生にして、すべての郵便局業務をこなしていたんですよ。業務のやり方は今でも体に染みついています。そんなわけで、切手集めが趣味になったのは、簡易郵便局の手伝いをしたのがきっかけです。当時、切手集めが流行っていて、私もコレクターと交換するなど熱中していました。中には手放してしまった切手もありますが、今でも大切に残してあります。
父は深川市役所に勤めていました。彼はおよそ公務員らしからぬ人物だった、と私は思っています。いつも壮大な夢ばかり語る人だったからです。父は、もともとは医師を目指していたそうです。しかし、祖父が早くに亡くなり、家計を支えなければならなくなって諦めたと聞いています。旧制中学校を出た後は、代用教員(*2)として働いていました。そのうち戦争が始まって召集され、大学進学の機会をすっかり失ってしまったということです。折に触れ、医学部について熱く語る父を見てきました。ですから、小さな頃からしぜんと「将来は医師になるのだろう」と考えていたのです。

*2戦前、人手不足等の理由で雇われた、教員資格を持たない教員のこと。

親元を離れての高校生活

小・中学校時代の勉学については、実はこれといって印象深い出来事がありません。音楽が得意で、歌やリコーダーの演奏を褒めてもらった記憶があるくらいです。自宅学習も、宿題に取り組む程度でした。
高校は、はじめは地元の公立学校に行こうと思っていました。それが、ひょんなことから函館ラ・サール高等学校を受験することになりました。先輩から「いい学校だよ」という話を聞いたり、仲の良い友人が「一緒に受験しよう」と誘ってくれたりして、何となく「じゃあ受けてみようかな」という気になったんです。受験会場が札幌市だったこともあり、本当に軽い気持ちでした。ほとんど対策らしいことをせずに入試に臨んだ上に、あの時は数学で大学入試の問題が出たんです。よくよく考えれば中学生でも解ける内容だったのですが、初見では“お手上げ”状態でしたね。それでもなんとか合格できました。最初はあまり気乗りしなかったのですが、両親に「行ってこい」と背中を押されたこともあり、進学を決意しました。
高校の寄宿舎には大きな部屋が二つあり、片方の部屋には二段ベッドが、もう片方には学習机が並んでいたのを覚えています。実は、ここでの生活は長くなく、すぐに下宿に移ったんです。下宿先ではラ・サールの生徒が数人と、先生一人と同居していました。大学を卒業されたばかりの若い先生で、私たちともよく遊んでくださいましたね。賑やかで楽しい日々を過ごす一方で、勉強にも熱心に取り組みました。特に1年生の時は、周りが優秀な先輩や同級生ばかりで、追いつこうと一生懸命でしたね。そんな学校生活だったので、部活動には入っていませんでした。ただ、3年生の時に発足したラグビー部には、少しだけ所属していたことがあります。ほんの少しですけれどね。ラグビーは大学生になっても続けました。

中学校時代はソフトテニス部に所属しました。北空知(道内の地域区分の一つ)の大会で、優勝したこともあります。参加したのがたった4校だったのですけれどね(笑)。

海外の研究者へ20通の手紙

函館ラ・サール高校の生徒の多くが医師を目指していました。開業医の息子もたくさんいましたよ。そうした環境の中にあって、私自身も3年間ずっと医学部への志望を持ち続けることができました。
大学受験では、東北大学と弘前大学に願書を提出しました。当時の大学は一期校と二期校の区別があり、受験時期も異なっていました。一期校である東北大学の入試は、確かな手ごたえがあったのを覚えています。しかし結果は不合格。すっかり意気消沈してしまいました。自信たっぷりだった東北大学が不合格だったので、二期校の弘前大学もどうせだめだろうなと諦めていたんです。仙台の予備校へ行く準備を進めていたところに、弘前大学からの合格通知が届いた時は、本当に嬉しかったですね。
それから現在までずっと弘前大学にいるわけですが、本当に来てよかったと思っています。北海道から弘前にやって来ますと、400年前の天守閣があったり、五重塔があったりして、歴史を強烈に感じます。城下町の成り立ちを考えると、心が躍ります。国内外に誇れる弘前の宝物です。
さて、大学入学後ですが、医師を目指すという明確な目標はあったものの、専門を決める際には迷いました。大学入学時に考えていたのは精神科医です。次に小児科医を志望しました。そうして、いろいろと悩んだ末に選んだのが、基礎研究の道です。臨床の現場で、治療の甲斐なく亡くなる患者さんたちと接するうち、「病気そのものをどうにかしたい」と考えるようになったからです。
研究者時代は、現状に満足することなく、新しいステージを求め続けました。中でも、海外の研究者20人に宛てて「そちらで研究させてほしい」という手紙を送った時のことは、よく覚えています。誰からの紹介でもない、何者かもわからない若い研究者からの連絡にもかかわらず、17人から承諾の返事をもらいました。大感激でしたね。研究の世界では、行動さえ起こせば、国籍や大学に関係なくチャンスが与えられるのだと実感しました。それで、アメリカのセントルイス・ワシントン大学からの紹介で、新しい研究室へ主任教授として赴く研究者に従い、2年間ユタ大学で研究をすることになりました。すばらしい研究室でした。とても良い縁に恵まれたと思います。

ラグビー部の練習でトライを決める大学生の佐藤先生と、先生の切手コレクションの一部。ラグビー部所属時には「東医体(東日本医科学生総合体育大会)」で優勝したこともあるそうです。

「学者(学ぶ人)」であること

皆さんが日々積み重ねている勉強は、受験のための勉強ではありません。今は志望校合格を目標としているかもしれませんが、「学ぶこと」そのものは大学入学後も、社会人になってからも続きます。学校で学んだ知識が真に活きてくるのは、大学の研究だったり、企業でのプロジェクトだったりするのです。まずは、そのことに気づいてほしいと思います。どのような分野でも、誰であっても、将来は「学者(学ぶ人)」になるのです。「学び」を活かすためにも、若いうちからサイエンス的な視点を養ってほしいですね。
弘前大学では、若い「学者」の皆さんが、それぞれの研究テーマを存分に追究できる環境を用意しています。中には大学院に進学しない学生もいるかもしれませんが、ぜひ大学院を目指すつもりで、4年間を悔いなく過ごしてほしいですね。大学で得た知識と経験は、必ず皆さんの役に立つはずですから。

青森ブランド

青森の価値の創造・向上を目標とする弘前大学。そんな同大学は、平成26年度、文部科学省の「地(知)の拠点整備事業」に採択されました。青森を愛し、地域の産業・生活・社会システムに「青森ブランド」としての新たな価値を見出す「人財」を育てる取り組みが進んでいます。このうち教育分野では、地域志向型人財に必要な知識や技能を修得するため、カリキュラム改革に着手。初年次の教養教育に、青森を対象とした課題解決型学修「地域学ゼミナール」、青森の歴史・文化・特色を学ぶ科目群「ローカル科目」を設置し、必修化しました。地域の魅力を掘り起こし、課題を解決することができる、現代社会において最も必要とされているスキルを学ぶことができる大学です。

「共育型地域インターンシップin 田舎館」に参加する学生たち。田舎館での経験を通して「やりたいことが見つかった!」という学生も少なくありません。