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2018年4月号 私の勉学

写真館と父の思い出

私が産声を上げたのは、熊本市の上通にある写真館です。後から聞いた話によると、この時、父と産婆さんは酒を飲みながら私が生まれるのを待っていて、いよいよという頃には二人ともすっかり酔っ払っていたそうなのですが(笑)。
父が写真館を始めたのは昭和初期のことでした。カメラは東京写真専門学校(現・ 東京工芸大学)で学んだそうです。父は、子どもの頃に結核を患って苦労をしたので、本当は医師になって自分のように病気に苦しむ人を助けたかったようです。しかし、療養が続いたため高等教育を受けられず、夢を断念したと聞いています。そんな父は写真に対して熱心で、自慢話もたくさん聞かされました。私が幼い頃は、熊本を走る産交バスのポスターの仕事もしていました。

県内の観光地を回って撮影する時は、私も父に連れられて行った思い出があります。
写真館は自宅も兼ねていたので、父の働く姿はよく見ていました。今はデジタルカメラが主流ですが、昔はフィルムを現像して写真を焼きました。現像する際には薬品を扱います。現像のために薬品を調合する様子は、まるで科学実験のようです。薬品の役割がどういうものかを肌で感じた体験でした。思い返せば、これが理系分野に興味を持ったきっかけの一つかもしれません。

産交バスのポスターの撮影では、父と二人で阿蘇も訪れました。雲海を狙ってレンズを構える父の姿を、今でもよく覚えています。

熊本のシンボル・熊本城

子ども時代の遊び場といえば熊本城でした。二の丸公園へ行く途中の空き地で、毎日のように野球をしていたんですよ。それから、夏休みには城内へ蝉を捕まえに行きました。城は10歳頃まで*1天守がなく、それほど規制も厳しくなかったので、不開の門の近くの石垣によじ登って入った記憶があります。まるで自分の家の庭で遊んでいるような心地良さでしたね。
そのように親しんできた熊本城でしたが、2016年4月の地震で大きく姿を変えました。私は、地震の2週間前に不開門の下で孫たちと花見をしたばかりでした。石垣を登る孫を写真におさめ、楽しい思い出がまた一つ増えたところだったので、大変ショックを受けました。熊本城は県のシンボルであり、人々の心の拠り所です。市電に乗ると行く先に本丸が見えます。あの堂々たる姿こそが、私たちの心の糧だったのです。崩れた石垣を撮って孫に送ると、涙を流して残念がっていました。

*1熊本城は西南戦争で多くの建物が焼失。天守は1960年に復元された。

生物への興味から医師の道へ

小学校のことといえば、クラス担任だった坂本先生のことが思い出されます。厳しい人でしたが、子どもたちからとても慕われていました。元旦には、友達と誘い合って先生の家に遊びに行くのが恒例になっていました。そして、新年早々「しっかり勉強しなさい」などと厳しいことを言われたものです(笑)。
坂本先生といえば、理科の授業がとても面白かったですね。いきいきと授業をされていました。きっと専門分野だったのでしょうね。本当に楽しそうにされている姿を見て、私も理科が好きになったんです。
私の場合、理科の中でもとりわけ生物への興味が深かったと思います。蝉取りは大好きでしたし、クワガタムシも夢中になって捕まえました。魚釣りにも行きましたね。押し花をして百科事典と見比べたりもしました。そんな私の将来の夢は、医師になることでした。医師を志した直接のきっかけは、母から薦められた野口英世の伝記です。ドイツ出身のシュヴァイツァー医師の伝記も読みました。その2冊は特に記憶に残っています。大変感動して、医師になろうと決意しました。中学時代には、すでに目標を決めていました。
家族で本を読むのは母と私の二人だけでした。母が読書家だったのは、小学校教員の家で育ったからでしょう。本は読みたいだけ買ってもらえました。本屋で読みたい本を選ぶと、勝手を知っている店主が家まで届けてくれたんです。完全にフリーパスですね。本当に有り難いことです。特に大学時代、高価な医学書を手に入れることができたのは両親のおかげに他なりません。

小学生の頃は、母がフィルムの修正をしている横で、灯りを借りながら宿題をするのが習慣でした。わからないところがあれば母が教えてくれました。

試験に対するプレッシャー

中学、高校時代、試験勉強は緊張や不安との戦いだったように思います。それらに打ち勝つ方法が、スケジュールの徹底管理でした。試験前の1週間は、スケジュール通りに自宅学習を進めないと気が済まなかったです。1分でも狂うとだめでしたね。 勉強時間や手をつける教科の順番はもちろん、夕飯や入浴のタイミングまで細かく決めていました。風呂の温度まで指定していたんです。未だに母からは「あなたは、あの時が一番大変だった」と言われます(笑)。
高校受験に対する不安が最も高まったのは、中学2年生の時でした。今でもよく覚えています。試験までの期間と自分の学習達成度を比べ、「この状態で熊高(熊本高校)、そして熊本大学医学部に行けるのだろうか」と不安で一杯になりました。医師になるという目標がはっきりしていた分、先のことを考えて心が不安定になったのでしょう。熊高に進学した後は「これで熊本大学への道がひらけた」と安心しました。しかし、間もなく同級生たちの優秀さに驚き、強いプレッシャーを感じて過ごすようになりました。ただ、この頃には、中学時代の経験をもとに「自分の心とどう付き合っていけばいいか」を学んでいましたので、プレッシャーを糧にして勉強に打ち込むことができました。

子ども時代、地元の祭りで(上写真・先生は中央)。アメリカ留学時代、キーストーンスキー場で開催された学会に出席した時(下写真)。

浪人生活で得た収穫

熊本大学に入る前に、1年間の浪人生活を経験しました。この1年間で得たことも大きかったです。特に、英文を読むための時間を持てたことが収穫でした。『星の王子さま』や『*2メアリー・ポピンズ』など積極的に長文に親しみました。実は、高校時代は英語が得意ではなくて、英語の先生から「原書を読むといい」とアドバイスをいただいていたんです。それを実行したのが浪人時代でした。他にも、月刊誌『大学への数学』の懸賞問題に応募するなど、楽しみながら学ぶことを心がけていました。
熊大に進んだ後の授業もまた楽しかったです。好きなことを学ぶのですから、大量の知識を詰め込む授業も苦にはなりませんでしたね。また、医学書も和洋問わず積極的に読み漁りました。
大学卒業後は外科に所属し、小児に外科に取り組みました。当時はほとんど成り手がいなかった分野です。そこで小児がんに取り組み始めました。小児がんは、暴飲暴食や喫煙など様々な環境が影響する大人のがんと違って、要因は遺伝的なものしか考えられません。難しい病気ですが、とてもシンプルです。大学院に戻ってからは、教授に「がんと免疫をテーマにするように」と言われました。「有名なウイルス学者がいるから、がんウイルスを学ぶように」ということでした。これが感染防御学を始めたきっかけです。研究者時代は、生涯で一番の恩師と出会ったり、アメリカで最先端の研究に触れたりと、環境にとても恵まれました。
*2ミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の原作。

「心が動く体験」が大事

熊本地震から2年が経ちます。誰もが大変な思い、悲しみを抱えながらも前に進んでいます。そんな中、復興支援に取り組む熊大生たちの姿は、実に頼もしい限りです。被災者の方々から「熊大生に助けてもらった」という声をいただき、大変誇らしく思っています。若い力が、震災を経て、さらに強く輝いているようです。不幸な経験ではありましたが、それが彼らの生きる糧になっているのですね。経験によって人が成長できるということを、私自身も実感できました。
皆さんも、これからいろいろな経験をしていくことでしょう。その中で、興味を持ったことには、ぜひ積極的に関わってほしいと思います。本を買って読む、イベントに参加するなど、アプローチの方法はいろいろあるはずです。新しい物事との出合いは感動につながります。心が動けば、知識や技術は自ずと身につくはずですよ。

熊大が世界に誇る研究

熊本大学には、発生医学研究所、エイズ学研究センター、先進マグネシウム国際センターなど世界レベルの研究拠点があり、国内外を問わず優れた研究者が活躍しています。先進マグネシウム国際センターが開発を進める「KUMADAI不燃マグネシウム合金」をはじめとする新素材は、世界中から注目されています。また、同学の永青文庫研究センターは、かつて熊本藩主であった細川家伝来の貴重な一級資料を保存・研究する施設です。このように、分野に特化した優れた研究施設があるからこそ、質の高い教育の実現も可能になります。「この研究がしたいから」「あの教授がいるから」熊大を目指す若者も多いことでしょう。熊大にはどんな研究分野があるのか、皆さんも注目してみましょう!

発生医学研究所の建物。 生命科学の分野で国際レベルの研究が行われています。