- わたしの勉学時代
長野大学は、1966年に学校法人本州大学として開学、その後、長野大学と改称。2017年の公立大学法人への移行後は、地域との連携をいっそう深め、地域の課題解決、持続的発展に注力してきました。小林淳一学長は、民間企業で研究、マネジメント、大学で経営改革を推進してきた実績を携え、2023年に学長に就任。長野大学においても、2026年4月の新学部設置・学部再編など、幅広い視野を持つ小林学長ならではの采配が光ります。
【小林 淳一(こばやし・じゅんいち)】
1948年生まれ。長野県出身。工学博士(東北大学)。
71年東北大学工学部卒業後、東北大学大学院工学研究科修士課程へ。76年同大学大学院工学研究科博士課程修了後、(株)日立製作所へ入社、機械研究所に勤務、2005年、研究開発本部ソリューションセンター長。07年より秋田県立大学システム科学技術学部教授を務め、17年、理事長兼学長に就任。23年、長野大学学長に就任。専門は、機械工学・流体力学。
長野大学がある、長野県上田市は私の故郷でもあります。両親と祖父母と姉、そして、高校生くらいまでは、結婚前だった二人のおばも同居していました。
両親はもともと千葉に住んでいて、父は農林省(現・農林水産省)に勤めていました。ただ、上田で農家を営む祖父の体調が悪化したため、長野に戻り、義兄と自動車整備会社を立ち上げました。農業も引き継ぎ、米や桃などを作っていました。また、信州上田といえば、江戸時代から養蚕が盛んな土地柄で、わが家でもカイコを育てていました。カイコは年に4回繭を作りますので、桑畑も春、夏、秋用とありました。小学生になった頃から、500mほど離れた桑畑と蚕室間を往復し、桑の葉を運ぶ手伝いをしていました。カイコは濡れた桑の葉は食べてくれませんので、夕立のある夏は特に大変で、雨が降りそうになると、家族総出で大急ぎで桑の葉を刈り取ったものです。ヤギも飼っていて、乳しぼりは私の担当でした。乳しぼりって難しいんですよ。ミルクを受けていた器の中にヤギが足をつっこんで、最後に、全部だめになってしまったりするんですよ(笑)。
農業の手伝いは大変でしたが、それ以外にしつけに厳しかったり、「勉強しろ」と言われたりした記憶はありません。父は怒ったことがない家族思いの優しい人で、母は友人を招きお茶会を催すような社交的な人でした。
▲【上】6歳頃、近所の友達と(前列左端が小林学長)
【下】12歳頃、お姉さんとおひな様の前で。
勉強に関しては、学校の授業と自宅での予習・復習が中心です。当時は学習塾などありませんし、親も教えてはくれませんので、必然的に一人で勉強していました。また、ベビーブーム世代だった私たちの小学校は、ひとクラスに50名以上いて、前の方では勉強しているけれど、後ろの方は遊んでいたりケンカをしていたりと、非常に騒がしい環境でした(笑)。
小・中・高と一貫して理系科目が得意で、特に数学が得意でした。暗記が必要な社会などは苦手でした。数学は解く手順さえうかべば、ほぼできたようなものですからね(笑)。分数の割り算が苦手な人が多いようですが、それは分数を上下逆にしてかけ算するという「手続き」に従って解いているからだと思います。そうではなく、実際に割り算を使う場面に落とし込んで、物理的に置き換えて理解できていれば、数学って本当はものすごくおもしろいものなんですよ。
高校3年の夏休みには、近所のお寺で友人たちと1週間ほど合宿したこともありました。お寺の中はとても涼しく、静かで、勉強がはかどったことを覚えています。勉強の合間に持ち込んだマンガ雑誌を読んだり、ご住職と仏教のことなどについて議論をしたり、お昼には境内の階段にすわっておにぎりを食べたり。受験期の楽しい思い出のひとつです。
▲小学校では野球、高校ではレコード鑑賞のサークルで、ベンチャーズやビートルズの音楽を楽しんでいました。高校の音楽室にいいステレオがあったんですよ(笑)。
大学は、東北大学工学部に進み、自動車が好きだったため、機械工学科を選択しました。子どもの頃、よく父親の経営する整備工場でエンジンルームをのぞいたり、修理の様子を眺めたりしていましたので。エンジン音を聞いただけで車種を当てられるほどでした(笑)。
そして将来、機械系の研究職に就くイメージを抱きながら学び、在学中から大学院への進学を希望していました。これからの時代、4年間の学びで得た知識だけでは研究者として活躍することは難しいと考えていたからです。その希望通り大学院へ進むのですが、そこで大きなターニングポイントがありました。気体や液体の動きや力を研究する「流体力学」と出合ったのです。特に私は、水や空気の流れを計算する「偏微分方程式」に夢中になりました。非常に難しい方程式でしたので、数学好きの血が騒いだんでしょうね(笑)。その方程式は、紙とペンを用いた通常の計算では正確な答えを出せないため、コンピュータを使用する必要があります。ところが、当時のコンピュータは、パンチカードを用いたもので、カードにプログラムを記録して1枚ずつ読み込ませる必要があり、ひとつの計算式を解かせるのにもひと苦労でした(笑)。以来、流体力学は、現在に至るまで私の主たる研究テーマとなっています。
大学院卒業後は、別の大学で研究職に就くことがほぼ決まっていました。しかし、その話が突然、先方の事情でなくなってしまいます。その際、指導教官が日立製作所の出身だったことから、面接の機会を得ることができました。実は日立製作所側も、新しいプロジェクトを立ち上げるにあたり、流体力学の研究者を求めていたのです。そうした紆余曲折を経て、30年以上にわたる日立製作所での研究生活がスタートしました。
入社後は、主に半導体の製造機械の研究に携わることに。当時は日本製の半導体が世界を席巻していましたので、私たちの研究成果がそのまま「世界最先端の研究」として評価されました。ただ、研究者としての勤務は15年ほどで、その後の15年間は、マネージャーとして100名ほどの研究者を取りまとめていました。一人ひとりの得意分野を見極め、社内外からの研究依頼を割りふり、進捗を把握し、問題が発生すれば一緒に解決にあたる。そうした役割は、大学で学生に研究指導をしたり、学長として先生方と課題に取り組む現在の立場と共通していると感じます。とはいえ、そのまま企業の論理をアカデミックの場に持ち込んでもうまくいきません。企業と大学、それぞれの特性を踏まえながら、より魅力的な大学へと改革を進めています。
▲日立製作所での機械研究所時代は、日本の半導体産業の絶頂期。 半導体をどんどん量産するための研究をしていました。
本学において私がまず取り組んだ改革は、理系学部の創設です。これまでは文系学部のみでしたが、今年度から理系人材を養成する「共創情報科学部」が誕生しました。また本学では、長年、地域社会や企業における課題などを対象とした現場で学ぶ「地域協働型教育」という取り組みを続けてきました。大変素晴らしい取り組みですので、1年から3年まで継続して現場で学び、卒論でも発表するという一気通貫のカリキュラムへと変更し、これまで半年程度だった協働活動の期間を2年間に延ばしました。というのも、半年では短すぎて、失敗すらできません。協働活動というのは、最初は、失敗するものなんです。一度失敗して「じゃどうする?」と解決に向けて共に取り組んではじめて、成長を実感できるのです。私自身、勤務時代、失敗のリスクがあっても一生懸命やっていれば相手もその姿を見ていてくれ、信頼関係が芽生え、双方が歩み寄ることで、新たに進むべき方向が見えてくるという経験を何度もしてきました。本学の教育プログラムを通して、学生にもそうした経験をしてもらいたいと考えました。
また、本学の学生には「自分の価値を持ちなさい」と伝えています。これからは、会社から仕事を与えられるのではなく、会社が成り立つのかどうかを皆で考え、それについての自分の考え・思いを会社に提案していく時代です。
そうした力を養うためにも、関塾生の皆さんに、今から意識しておいてほしいのが「要約力」です。授業や話し合いなどでは、内容の要点をつかみ、自分なりに噛み砕いて深く理解し、次にすべきことなどのポイントを書き出す訓練をしておくことをおすすめします。それができれば、社会において一目も二目も置かれる存在になれます。