• わたしの勉学時代

2024年3月号 わたしの勉学時代 宮崎大学長 鮫島 浩先生に聞く

国立大学法人宮崎大学が掲げるスローガンは、「世界を視野に地域から始めよう」。5学部・7研究科の各専門領域で新たな知の創造を目指し、同時に、多様化する時代の要請に応える社会性と国際性、豊かな人間性を高める教育にも力を入れています。また、グローバルキャンパスの構築に向けて、世界各国の大学との交流事業も積極的に展開。鮫島浩先生は高校時代に医師を志し、故郷に貢献したい思いで地元の大学を選ばれたそうです。

【鮫島 浩(さめしま・ひろし)】

1957年生まれ。鹿児島県出身。医学博士(日本大学)。

81年3月鹿児島大学医学部卒業、鹿児島市立病院に入職。83年ロマ・リンダ大学留学(米国カリフォルニア州)。帰国後、86年に再び鹿児島市立病院へ。91年日本大学医学博士取得。95年宮崎医科大学医学部講師、96年同大学医学部附属病院助教授。2011年宮崎大学医学部生殖発達医学講座産婦人科学分野教授。16年宮崎大学医学部附属病院病院長、宮崎大学理事(病院担当・病院長兼務)。21年宮崎大学長就任、現在に至る。専門は産婦人科学、周産期医学、胎児生理学、胎児・新生児医学。

のびのびと育った末っ子

 生まれ育ったのは、鹿児島市の中心部です。私が子どもの頃は市内にもたくさんの自然が残っていて、自宅の裏手には小さな山もありました。そこに近所の友人たちで集まって秘密基地を作ったり、昆虫を捕まえたりして遊んでいました。
 父は鹿児島大学の職員で、多少短気な面がありましたが、手先が器用でいろいろなことができました。工作の宿題があると「こうやるんだ」と教えてくれるのですが、次第に本人が夢中になり、結局は半分以上を作ってくれるようなことも。対して、専業主婦だった母はおっとりした人でしたね。
 3つ上の兄と1つ上の姉がいて、小中学校は私を含めて3人とも鹿児島大学教育学部の附属校に通いました。兄も姉も非常に優秀だったので、私が入学すると“鮫島の弟”と何かと注目されることが多かったです。教育熱心な家庭だったから附属校に通わせたのでしょうが、親に勉強しろと言われた記憶はありません。兄や姉には厳しかったのかもしれませんが、末っ子の私にはのびのびと自由にさせてくれました。

勉強も同じくらいおもしろい

 小学校では遊んでばかりでしたが、中学では最初の定期テストでクラス1位、学年でも上位に入りました。ある時ふと、勉強も遊びと同じくらいおもしろいと気づき、進んでするようになったのですが、今思うと、優秀な兄と姉がそばにいてくれたおかげです。小学生の頃からわからないことがあれば何でもすぐに聞けましたし、中学でのテスト対策なども教わったことをしっかりやれば高得点をとれました。
 また、中学ではバスケットボール部に入りました。競技そのものに惹かれたというより、「バスケットボールをやれば背が伸びる」と聞き、かつ、一番女の子にモテる部活とも言われていたので、本当かなと半信半疑で入部したのです。結局、さほど背は伸びず、特段モテることもありませんでしたが(笑)、高校でも続けて、インターハイにも出場できました。勉強だけやって頭が良いのは当然だ、運動もできないと駄目だという思いがあり、限られた時間の中でどちらも集中してやろうと決めていました。
 高校受験は、公立の県内トップ校で、兄と姉も通っていた鹿児島県立鶴丸高校を第1志望に。先生には私立の名門校ラ・サール高校もすすめられたのですが、男子校に行く気はありませんでしたし、初志貫徹で迷うことなく鶴丸高校に進学しました。

▲勉強方法の基本は、ひたすら書く、という感じでしたね。定期テストの度にボールペン1本のインクがなくなるほど書いて覚えていました。また、高校生の時から毎朝ラジオの英会話を聞き始めて、今でも欠かさず聞き続けています。

体の中にも宇宙はある

 どの科目でも「おもしろい!」と感じると、時間を忘れるほど集中して机に向かえました。理系、特に数学や物理は自分で公式を導き出すほど得意で、後から授業で習った際、「この公式、もう知っている!」となることも。文系の科目も好きで、国語の漢文はレ点や返り点が付いていない白文でも苦にせず読んで楽しめましたし、暗記科目の歴史も嫌いではなく、同じ年代に起きた日本と世界のできごとをノートに書き出すなど、興味を持って覚えられました。あまり好きではなかった科目を強いて挙げれば、現代文、それから音楽や美術でしょうか。文章や芸術の解釈は人それぞれで良いはずなのに、テストではひとつの基準に従って採点されることが釈然としなかったのです。
 大学の進路は、高校の早い時期から2つに絞っていました。1つは宇宙物理学で、日本人初の宇宙飛行士になるという夢を描いていました。もう1つが医学部です。それで、一期校で東京大学の理科Ⅰ類、二期校で鹿児島大学の医学部を受験しました。どちらも合格したのですが、いろいろと考えを巡らせるうちに、医師の方が早く人の役に立てるし、「人間の体もわからないことばかりで、宇宙みたいなもの」との結論に至りました。それに、東大には既に兄弟が行っていたので、私は故郷に残り、将来は医療で地元に貢献するのも良いだろうと、鹿児島大学医学部に進む道を選びました。トップ校に進むことだけが必ずしも良い道ではないと思っています。

サイエンスだけに偏らない

 医学部は試験が多く、最初はとにかく膨大な量を覚えないといけないので大変でした。しかし、臨床が始まると、基礎医学で別々に学んだことが次々とつながって、頭の中に知識のネットワークが構築され、どんどんおもしろくなりました。
 そして学部6年の学びを終え、医師の国家資格を取得して、鹿児島市立病院で研修に入りました。日本初の5つ子誕生で話題になった病院で、そのプロジェクトに携わった外西寿彦先生とお酒を飲んでいた時、私はあまり覚えていないのですが「産婦人科に入ります!」と宣言したらしく、産婦人科を専門に選ぶことになりました(笑)。とはいえ、もちろん産婦人科への興味はもともと持っていました。母体と胎児の関係について解明されていることは少なく、その不思議にせまりたかったのです。また、次の世代の命を預かる、未来へつながる医療であることにも魅力を感じました。
 その後、5つ子出産の主治医を務めた池ノ上克先生が留学先から帰国され、いろいろと教わる中で私も留学することを決め、米国カリフォルニア州のロマ・リンダ大学に3年ほど滞在。ロンゴ教授の指導のもと、先進の産科医療を研究しながら、医療哲学を学ぶ大切さも教わりました。医療はサイエンスだけを追究していると、時に行き詰まってしまうことがあります。最新技術の医療を駆使しても患者さんを救えないことはあり、そうした場に遭遇する度に心を乱していては、医師は務まりません。ですから、哲学や道徳観といった心の拠り所を持っておくことはとても重要なのです。医師として早い段階でそのことを学べて良かったと思います。

教養の裾野を広げよう

 帰国後は再び鹿児島市立病院に戻り、4年後、先に宮崎大学で教授を務められていた池ノ上先生をお手伝いするために私も移りました。取り組んだのは、周産期医療の新たなシステムの構築です。当時の宮崎県は、生後1か月以内に亡くなる赤ちゃんの数が日本でワースト1位でした。その不名誉を返上するために、池ノ上教授の下で周産期医療の基地を県立3病院に設ける構想を立て、さらに医療従事者への教育なども実施して、行政から支援を受けられる複合的な医療システムを作り上げました。今日に至るまで宮崎県は全国でもトップレベルの水準を維持し続けています。
 長年、本学の医学部で教鞭を執り、学長になった今も変わらず大事にしているのは、教育は学生目線で行うべきということです。専門課程に入る前に幅広く教養を身につけておくと、学生にとって非常にプラスになります。専門の学びだけで細長い知の塔を建てるより、様々な教養の裾野がある上に塔を築く方が間違いなく強固で、広い視野でものごとに向き合えます。
 皆さんが学校や塾で取り組んでいる勉強は、そうした教養の土台になるものです。勉強は、「おもしろい」と思えば、率先して学ぶようになります。おもしろさに気づけないと集中して取り組むこともできないので、ぜひ自ら興味・関心を持っていろいろなことをしてほしいと思います。人によって成長のスピードは違いますが、学問にかかわらず、どの分野でもトップに立つ人、名人と呼ばれる人は、必ずどこかで自分にとっておもしろいことを見つけ、夢に向かって走り出しているはずです。親御さんや先生方もぜひ、子どもが楽しくおもしろく学べる環境を用意してあげてください。

▲兄や姉の同級生に声をかけられたり、チーム競技に打ち込んだり、人のつながりの中で育ったからでしょうか。私には、勉強でも仕事でも、つながり始めたと感じるとおもしろくなり、のめり込んでしまう性質があるようです。