• 特集①

2023年1月号特集① 縄文人の暮らしのヒミツ―土偶女子・譽田亜紀子先生に聞きました!

 2021年7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されました。三内丸山遺跡(青森県青森市)など17の遺跡で構成される遺跡群からは、狩りの道具や釣り道具、木の実をすりつぶす道具の他、たくさんの魚や動物の骨などが出土し、縄文人が自然の資源をうまく利用して暮らしていたことが感じられます。祭祀に使われたとみられる土偶や、食べ物の煮炊きや貯蔵に使用した土器も多数見つかり、様々な工夫をして生活していた姿が浮かび上がります。

 そんな縄文人の暮らしについて、“土偶と出会って人生が変わった”とおっしゃる譽田亜紀子先生にお話を伺いました。

縄文人の「衣」

 

「編布」で衣服を作った

 縄文人は、植物の樹皮や繊維を糸にして編んだ布で衣服を作っていたとみられています。布は「編布」と呼ばれ、針はシカの角や鳥の骨などから作っていました。長野県北相木村の遺跡からは約1万年前の針が見つかっています。とても細いですが、ちゃんと針穴があいていて、一番小さい穴は1ミリ以下。どの針も丹念に磨き込まれ美しいです。当時は、何を作るにもまず素材を集め、道具を作るところから始めなければならなかったわけですから、その創意工夫と器用さには感心します。
 冬以外は編布を縫い合わせて作った簡単な衣服を身に着け、冬には寒さから身を守るため、シカやイノシシなどの毛皮で防寒していたと考えられます。

▲三内丸山遺跡 針
動物の骨から針やヘアピンなどが作られました。
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)

▲縄文服(復元)
デザインは不明ですが、刺繍をしたり、染色材で染めたりしていたことから、衣服に文様が描かれていても不思議ではないと考えられます。
(写真提供:茅野市尖石縄文考古館)

定住し、狩りをし、土器や土偶を作り…… 縄文人の衣・食・住を知る

 

 今から約1万5000年前に始まった縄文時代は1万3000年も続きました。これほど長く続いた時代は世界を見ても他にありません。まずは、私たちの祖先である縄文人がどんな暮らしをしていたのかを教えてもらいましょう!

遺跡や遺物を調査・分析

 縄文時代には文字がなかったので、当時の人々がどんな暮らしをしていたかを知るには、遺跡や遺跡から出土した遺物などを詳しく調査・分析するしかありません。しかし彼らは非常に多くの手がかりを残してくれました。大規模な集落を営んでいた日本最大級の縄文遺跡・三内丸山遺跡からは、大量の土器、石器、土偶、木製品、*1 骨角器、さらに遠くから運ばれた交易品などが見つかっています。
 これらを調査した結果、縄文人はそれまで考えられていたよりはるかに優れた技術を持ち、高度な精神文化を培い、自然とともに生きながら暮らしを彩ることも知っていた――こんな側面が浮き彫りになってきました。決して野蛮で未開な人たちではなく、厳しい自然環境の中を創意工夫しながら賢くたくましく生き抜いてきたのです。

*1 動物の骨や角、牙などで作った道具や装身具。

 

縄文人の「食」

 

食べられるものは何でも

◦主食は木の実

 縄文時代の人たちは多くの種類の食べ物を食べていました。主食はドングリやクリ、トチ、クルミなどの木の実。木の実は高カロリーなので活動するためのエネルギーが効率よく得られたのです。縄文人は現代の私たちが摂取するカロリーの約8割を摂取できていたことがわかっていて、これは木の実を主食にしていたからです。

 ドングリやトチの実はアクが強いので土器で木の灰と一緒に煮たり、水場でさらしたりしてアク抜きし、すりつぶしてだんごのようにして食べていたようです。また、様々な種類の山菜やキノコなども採集していました。

▲大船遺跡(北海道函館市)から出土したクリ
竪穴建物跡や盛土遺構などから多数出土しました。
出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵)

◦狩りは落とし穴や弓矢で

 動物は、シカやイノシシ、ノウサギ、タヌキ、アナグマなどを食べていたことがわかっています。狩りは、槍でつく、落とし穴などのワナを仕掛けるといった原始的な方法で行っていましたが、やがて、遠くから獲物を安全にしとめられるように、また、動きの早い小動物を捕まえるために弓矢が作られるようになりました。

▲三内丸山遺跡 動物骨(左:シカ、右:イノシシ)
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)

◦肉や魚は加工して保存も

 海に近い土地では、タイやマグロ、スズキ、イワシなど、川が近ければコイやフナ、ウナギなどを捕っていました。他に、シジミやアサリ、ハマグリといった貝類も食べていました。
 縄文人は、こうして手に入れた肉や魚をすぐに食べるだけではなく、燻製や干物、塩漬けにして、長期保存できるようにもしていました。
 想像していたよりも豊かな食生活をしていたんだなと思うかもしれませんが、手っ取り早く言うと、自分たちの身の周りにある食べられるものは何でも食べたというのが実状でしょう。自然から恵みをもらって命をつないできた縄文人にとって、食べることは現代の私たちよりはるかに切実に生きることに直結していたのです。
 

縄文人の「住」

 

定住生活を始めムラができる

 縄文時代の前の旧石器時代は、マンモスなどの大きな獲物を追いかけ、移動しながら生活していました。この頃の住まいは、すぐに移動できるテントのようなものだったと考えられます。
 縄文時代になると、人々の暮らしは移動生活から定住生活へと大きく変化します。定住することで生活が安定し、みんなで集まって暮らすようになり、生活の拠点となる「ムラ」が生まれました。
 縄文時代の家の代表は「竪穴住居」です。地面を掘って柱を何本か立て、屋根をかけた半地下式の家で、床の中央には火をたく炉が作られました。一般的な住居は直径5メートルほどの円形か楕円のような形で、今でいうワンルーム。ここに5~6人が暮らしていたとみられています。

茅葺きではなく土葺き

 この頃の家というと多くの人が茅葺きをイメージしますが、実際は土葺き(土屋根)だったということが明らかになっています。土葺きの家は木材で骨組みし、その上に樹皮や草木で下地を作り、土をかぶせて草を生やすことで、屋根が崩れないようにしていました。
 ムラには、太い柱を使った大きな建物や大勢が集まる広場、亡くなった人を埋葬するお墓、貝殻や食べ物のかすを捨てる貝塚なども作られました。

▲御所野遺跡 東ムラの土屋根住居(岩手県一戸町)
復元された竪穴住居(縄文時代中期)。
出典:JOMON ARCHIVES(一戸町教育委員会撮影)

土偶との出会いで人生が変わった 土偶の魅力を伝えたい!

 

 譽田先生が土偶や縄文時代に興味を持つようになったのは、ある土偶との出会いがきっかけなのだとか。その運命的なできごとについて、最初の本を出版するまでのお話などを伺いました。関塾生へのメッセージもいただきましたよ!

土偶の造形に衝撃を受ける

 私が “運命の人”と呼んでいるのは、奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡で見つかった土偶です。フリーライターの仕事をしていた時の取材中に出会い、その造形に衝撃を受けました。それまでは土偶というと有名な遮光器土偶しか知らなかったので、「何これ!?  おもしろい!」と。土偶についてさらに調べると「ハート形土偶」や「合掌土偶」などユニークなものが次々と出てきて、ますます夢中になりました。それから全国各地の遺跡や博物館を訪ねて実物の土偶を見に行くようになり、土偶や縄文時代への興味・関心がどんどん深くなっていきました。

 

▲観音寺本馬土偶(奈良県橿原市)
「まん中に押して作った口があり、その上の2つの穴は目ではなく耳です。当時は目を貫通させる表現はなかったからです。女性を表す乳房やお腹のふくらみがないことなどから男性だとみられています」。
(奈良県立橿原考古学研究所所蔵)

 

最初の本の出版まで5年

 土偶について知るほどに、「かつて日本に住んでいた人たちがこんなにユニークなものを作っていたことを多くの人に知ってほしい!」という思いが募っていきました。土偶の本を出したいと思ったのですが、研究者でも専門家でもない私が、ただ土偶が好き!というだけで簡単に本など出せるはずがありません。出版社に企画を持ち込んでは断られ……の繰り返しでした。
 ただ、それと並行して文章を書く勉強をしようと大学の通信教育のライティングコースに入学し、縄文時代の講座を受講したことがきっかけで道が開けました。講座の講師に、私の本の監修をしてくださっている武藤康弘先生(奈良女子大学教授)がおられ、いきなり「土偶の本を出したいので考古学について教えてもらえませんか」とお願いした私を寛大な心で受け入れ、いろいろなことを教えてくださったんです。
 土偶の本を作るにあたって武藤先生は、「基本はしっかりとおさえ、あとはできるだけ高く跳びなさい」とアドバイスしてくださいました。「あなたは専門家ではないのだから社会に還元することだけを考え、一般の人と同じ目線で自由に書けばいい」と。そうして出来上がったのが最初の著書『はじめての土偶』(2014年)です。土偶の本を作りたい!と思い立ってから5年が経っていました。
 

▲『はじめての土偶』
監修:武藤康弘
取材・文:譽田亜紀子(世界文化社)
表紙の写真は「縄文の女神」(国宝)。

 

土偶のおかげで諦めなかった

 5年の間にはいろいろな問題が起き、その度に「本を出すなんて無理なのかな」と何度もくじけそうになりました。でも、そんな時にチカラをくれたのは、やはり土偶でした。新しい土偶に出会うと「やっぱりこのおもしろさを伝えなければ!」という思いが湧いてきて……。諦めなかったのは土偶のおかげですね。出版後の反響は大きく、「今までは大っぴらに言えなかったけれど、この本のおかげで堂々と土偶が好きと言えるようになりました」とか、「遮光器土偶しか知らなかった土偶の世界が広がりました」「学校の図書館で一番人気です」など、嬉しい声をたくさんいただきました。
 考古学者の先生が縄文時代や土偶の本を書くと、いろいろな制約などから言いたいことを充分に伝えきれなかったり、どうしても難しい内容になったりしがちです。それを専門家とは違う目線で紹介するのが私の役目だと思って、これからも土偶の魅力や縄文時代の人々の姿をわかりやすく伝えていきたいですね。
 

転職を繰り返した20代

 1冊目の本を出したことをきっかけに人生が大きく変わりました。これほど好きなこと、夢中になれるものに出会えたのは、とても幸せなことです。というのも、20代の頃は転職を繰り返し、「私には存在価値がない」と思うほど落ち込んだ時期があったからです。小学生の時から人一倍正義感が強く、人のために役に立ちたい、そのために自分ができることは何だろうと思い続けていて、就職しても「この仕事、私じゃなくてもいいよね?」となってしまって……。“自分にしかできない人のためになる何か”を模索し続ける日々でした。
 そんな時ふと思い出したのが、小学生の時の「学校の先生か新聞記者になって次の世代に何かを伝えることがしたい」という夢です。そういえば子どもの頃から伝えたいという意識が強く、書くことが好きだったなあと。それでライターのアシスタントを始め、その仕事で私の人生を変えた観音寺本馬土偶に出会いました。紆余曲折しましたが、結果的に何かを伝えることがしたいという小学生の時の夢をかなえることができました。
 

好き!に出会ったら全力で

 関塾生の皆さんには、私のように好きなものに出会うきっかけはどこにあるかわかりませんよと伝えたいですね。自分の可能性を狭めずにいろいろなことに挑戦していれば、おもしろいと思えるものにきっと出会えます。「好き! おもしろい!」と感じたら全力で向かっていきましょう。
 夢を言葉にすることも大事です。私は土偶の本を出したいと思った時、会う人会う人にそのことを伝えました。すると、自分だけではどうにもならないことでも、誰かが何かしらチカラをくれて、扉が開く、道ができる、光が差すことがあります。誰かが「そんな夢かなうわけない」と言ったとしても、無理かどうかを決めるのはあなた自身です。自分を信じて努力を続ければ、夢に近づくことができるはずですよ。

 縄文遺跡は全国に約9万か所もあると言われています。もしかしたら皆さんの家や学校の近くにもあるかもしれません。土偶や土器を展示している博物館や資料館もたくさんあります。ぜひ出かけて縄文文化に触れてみてくださいね。

縄文人のセンスにびっくり! 国宝土偶、土製品などをご紹介

 

 

▲左:国宝「土偶」縄文のビーナス
ハート形の顔と逆ハート形のお尻が特徴的な土偶です。妊娠した女性の姿を表しており、安産祈願や子孫繁栄を願う祭祀に使われたと考えられます(高さ27㎝)。
(写真提供:茅野市尖石縄文考古館)

▲右:国宝「土偶」仮面の女神
逆三角形の仮面をつけています。丁寧に文様がつけられ、表面はよく磨かれています。中は空洞。右足が壊れて出土しましたが、これは縄文人がわざと壊したものと考えられています*2(高さ34㎝)。
(写真提供:茅野市尖石縄文考古館)

*2 土偶を壊した理由は、破片を大地にまいて農作物の豊穣を祈ったとする説や、体の悪い部分を壊して身代わりになってもらい病気の治癒を願ったとする説など諸説あります。

 

 

国宝に指定されている土偶はこの2体の他、
「中空土偶」「合掌土偶」「縄文の女神」の全部で5体あります。

大石平遺跡 手形・足形付土版(重要文化財)
1歳前後の子どもの手や足を粘土に押しつけて焼いたものです。子どもの成長を願って作られたか、早くして亡くなった子の形見として作られたのではないかと考えられています。
出典:JOMON ARCHIVES(青森県立郷土館所蔵、田中義道撮影)

尾上山遺跡 クマ形土製品
ツキノワグマの土製品。森の王者・クマの強さが自分にも宿りますように……という思いを込めて作ったのかも。
出典:JOMON ARCHIVES(青森県立郷土館所蔵、田中義道撮影)

大湯環状列石 土版
これが見つかったことで縄文人は数を認識していたのでは?と考えられています。〈おもて〉では1、2……と5までが穴と点で表現され、〈うら〉には6が!
出典:JOMON ARCHIVES(鹿角市教育委員会所蔵)

三内丸山遺跡 縄文ポシェット
ヒノキ科の針葉樹の樹皮を縦横に組んで作られています(高さ16㎝)。こうした小型の編みかごは、木の実の採集や運搬用として使われたようです。
出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵)