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2022年12月号特集① 鉛筆に詳しくなろう!―北星鉛筆の取り組み

 皆さんがいつも使っている鉛筆は、世界でも最も使われている筆記具です。とても身近なものですが、一体いつ頃からあるのか、どうやってつくるのか、知っていますか?

 今回は、東京の下町にある北星鉛筆株式会社にお邪魔して、鉛筆の歴史やつくり方、ユニークなアイデア商品についてなど、いろいろなお話を伺いました。

 鉛筆の秘密や魅力を詳しく知ると、使うのが楽しくなりますよ。

鉛筆ができるまで

 1951年の設立以来、70年以上鉛筆をつくり続けている北星鉛筆株式会社。5代目社長の杉谷 龍一さんに案内していただき、まずは鉛筆誕生の歴史や現在の製造工程など、鉛筆ができるまでのお話を伺いました。

16世紀のイギリスで誕生

 鉛筆の芯は黒鉛という鉱物でできています。16世紀にイギリス北西部にあるボローデール鉱山で黒鉛が発見され、鉛筆が誕生しました。羊飼いが強風で倒れた木の根元から黒鉛を見つけて、羊に印をつけるために使ったという伝説が残っています。この黒鉛は質が良く、大きな塊だったので、そのままでも文字などを書くことができ、糸で巻いたり、木で挟んだりして使われていました。これが最初の鉛筆で、便利な筆記具としてすぐにヨーロッパ中に広がります。
 しかし、採り続けるうちに黒鉛の量が減り、小さな塊しか採れなくなっていきました。そこで、小さな黒鉛で鉛筆をつくる方法が考えられるようになり、18世紀末にニコラス=ジャック・コンテというフランスの発明家が、黒鉛を粉にして粘土と混ぜて焼くことを思いつきました。混ぜる割合を変えると芯の硬さや濃さを変えることができ、BやHBなどの濃さを表す言葉もコンテによって決められたものです。現在の鉛筆もコンテが考えたものとほとんど変わらない方法でつくられています。

日本で広がったのは明治時代

 日本に鉛筆が伝わった正確な年代は不明ですが、現在残っている最も古い鉛筆は江戸時代のもので、初代将軍・徳川家康が持っていました。また、戦国武将の伊達政宗が持っていたものも残っています。ですが、当時は一部の人が持っているだけで、一般の人が使うようにはなりませんでした。日本の和紙には鉛筆よりも筆の方が書きやすいことなどが理由ではないかと言われています。
 その後、日本が開国し、西洋の様々な国と貿易するようになると、鉛筆もたくさん輸入されるようになりました。そして明治維新後、日本は西洋の文化や技術を積極的に学び、取り入れていきます。1873年のウィーン万国博覧会に派遣された日本人が製造技術を学び伝えたことで、日本でも鉛筆づくりが始まりました。鉛筆は筆よりも扱いやすく、消しゴムで消すことができるので、子どもが勉強する時に文字を書きやすい便利な筆記具として、学校などを中心に広く使われるようになったのです。

受け継がれる“鉛筆の精神”

 杉谷家の先祖は徳川幕府に仕えていた祐筆(書記)で、幕府がなくなって職を失った時、これからの時代は鉛筆が大量に必要になると考えたそうです。そこで、北海道に屯田兵として渡って、スラットを製造する会社を設立し、全国に販売していました。その後、関東大震災で経営が行き詰まった鉛筆製造会社を引き継いで、現在の場所、東京都葛飾区に会社を設立しました。創業者の「鉛筆は、我が身を削って人のためになり、真中に芯の通った人間形成に役立つ立派で恥ずかしくない職業だから、鉛筆のあるかぎり利益などは考えずに家業として続けろ」という“鉛筆の精神”が、代々受け継がれています。
 ですが、日本の鉛筆の生産量が最も多かったのは1966年なので、設立から15年ほどで減り始めてしまったことになります。ボールペンやパソコンの普及で大人が職場で使う機会が少なくなり、少子化で子どもが使う数も減ってしまったことなどが原因ですが、社会は変化していくものなので、それ自体は当然のことです。だからといって別のことを始めるのではなく、売れない時代だからこそ、どう鉛筆と向き合って、その価値を向上させていくのかが大事なのだと思っています。

いろいろなアイデア商品

 北星鉛筆では、普通の鉛筆だけではなく、時代に合わせたアイデア商品をつくり続けています。例えば、日本で最初につくられたボールペンは軸が木製だったのでその軸をつくったり、スーパーと協力してオリジナル商品をつくったりしました。中でも、「大人の鉛筆」はヒット商品になりました。シャープペンシルと同じ構造ですが、木の軸にも2㎜の太さの芯にも、鉛筆と同じ材料を使っています。工場見学に来ていた方の「大人向けの鉛筆があったらいいのに」という一言が開発のきっかけでした。また、タブレットなどが普及し始めた頃には、鉛筆がタッチペンになるキャップを開発しました。いつでも、身の回りの様々なできごとをどうすれば鉛筆と結びつけられるかを考えています。
 最近、SDGsの観点から注目される機会が増えたのは、鉛筆を削る時に出る木のくず「おがくず」を再利用した商品です。鉛筆の製造工程では約40%がおがくずとなり、従来は産業廃棄物として処理するしかなかったのですが、廃棄には費用もかかるし、捨てるのはもったいないから何かに使えないだろうかと思ったのです。当時はSDGsが採択される前でしたが、環境問題に取り組む風潮は既にありましたし、リサイクルするなら環境にも良いものにしようと考えました。そして、生分解性にこだわった環境に優しい商品である、木の粘土「もくねんさん」や木の絵の具「ウッドペイント」を開発。おがくずを資源として活用することで廃棄率を約10%まで減らして廃棄費用をおさえ、リサイクル商品での利益を鉛筆製造に還元して、より品質の良い鉛筆をつくる「循環型鉛筆産業システム」を構築しました。これも鉛筆をつくり続けていくために考えた仕組みです。

土中や水中の微生物によって分解される性質。

鉛筆をつくり続けるために

 ピーク時には約200社もあった日本の鉛筆会社ですが、現在では約30社。芯だけをつくるなどの専門的な会社が多く、北星鉛筆のように注文を受けて完成までつくる会社は、片手で数えられるほどの少なさです。そのような状況の中、北星鉛筆は常に新しいことに取り組み続け、時代の波を乗り越えてきたそうです。

▲建物に描かれた大きな鉛筆や、鉛筆の案内看板が目印です!

鉛筆の魅力を知ってほしい

 文化や技術は一度失われてしまうと、なかなか復活させることができないものです。例えば、鉛筆の材料となるスラット。昔は日本の会社でもつくっていましたが、アメリカから安くて良い木材が大量に輸入されるようになって廃業し、もう日本でスラットはつくられていません。アメリカでは、中国製の安い鉛筆が入ってきたことで、鉛筆をつくる会社がなくなりました。日本にも中国製の鉛筆は入ってきたのですが、高くても質の良い日本製の鉛筆を使いたいという人が多かったおかげで、会社の数は減っても鉛筆はつくられ続け、現在でも日本の鉛筆は高品質だと評価されています。
 使いたい人がいないと、つくり続けることはできないので、鉛筆の魅力や価値を高めたり伝えたりすることも大切な仕事のひとつです。そこで、鉛筆資料館「東京ペンシルラボ(TOKYO PENCIL LAB.)」を設置して、一般の人に鉛筆の歴史を学んだり、工場を見学したりしてもらっています。また、鉛筆を大切にしてもらえるように、使い終わって短くなった鉛筆(5㎝以下)を5本持って来てくれたら、新しい鉛筆1本と交換しています。短くなった鉛筆は感謝の気持ちを込めて鉛筆神社で供養します。他にも、鉛筆画のコンテストを開催するなど、様々なことに取り組んでいます。

経験がアイデアのもとに

 私は子どもの頃から鉛筆屋を継ぐんだろうなと思って育ち、大学卒業後すぐに入社しました。父も勉強しろなどと言うことはなく、いつも楽しそうに鉛筆の話をしてくれたので、嫌だと感じることもなかったのですが、どうやら父は私があまり優秀過ぎると鉛筆屋以外の仕事をしたがるかもしれないから、勉強はほどほどでいいと考えていたようです(笑)。実際に働き始めてみると、鉛筆の魅力に改めて気づき、こんな商品をつくりたいというアイデアがどんどん出てくるようになりました。
 また、何にでも興味を持って挑戦するタイプで、その経験が鉛筆づくり、新しい商品をつくることに活きています。アイデアはいきなり生まれるものではなく、新たな経験を通して考え方が変わることで思いつくものです。だから皆さんにも、どんなことでも挑戦して、たくさんの経験を積み重ねてほしいと思います。
 そして私は、お金、お給料とは“ありがとう”という気持ちの集合体だと思っています。自分のした仕事、良い鉛筆をつくったことに対して、使ってくれた人の感謝の気持ちが返ってくるのだと感じています。これからも、もっと多くの人に喜んで使ってもらえて、“ありがとう”を返してもらえる、良い鉛筆をつくり続けていきたいです。皆さんも、たくさん鉛筆を使ってくださいね!

▲鳥居が鉛筆の形をしている鉛筆神社。

▲東京ペンシルラボには、「もくねんさん」体験ブースや記念撮影スポットもあります!

 

 北星鉛筆では、商品開発以外にも多くの取り組みが行われています。杉谷さんご自身のお話も伺い、関塾生の皆さんへのメッセージもいただきました!

鉛筆のつくり方についてもっと詳しく知りたい人は、杉谷さんが監修した本
『イチからつくる えんぴつ』(杉谷 龍一 編/農山漁村文化協会)を読んでみましょう!