関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2020年4月号 わたしの勉学時代

図鑑に夢中だった幼少時代

 静岡県三島市が私の生まれ育ったところです。今では東京のベッドタウンとして発展していますが、私が幼少期を過ごした頃は野山に囲まれた田舎町でした。家の周りには手つかずの自然がまだまだいっぱいあって、毎日外を駆け回って遊んでいました。
 最初の記憶をたどると、幼稚園に入る前、3歳くらいの頃でしょうか。近所のおじさんによく世話をしてもらっていて、彼の家でいつも微生物の図鑑に見入っていました。ミジンコやボルボックス、ツリガネムシなどの絵や写真に釘付けになったのを覚えています。もう少し大きくなると海や宇宙の絵本、昆虫図鑑にも夢中になり、外で遊ぶ時は図鑑で知った虫を探し回っていました。
 父は建築業の会社で仕事をしていました。母も一時期は同じ会社に勤めていましたが、辞めてからは専業主婦でした。1つ違いの弟がおり、歳は近いですが興味や嗜好は私とは正反対。私は理系、弟は文系の道に進みました。父からも母からも「勉強しなさい」と言われたことはなかったので、いわゆる教育熱心な家庭ではなかったと思います。でも「これをやりたい」と言えば何でも好きにやらせてくれました。子どもの自主性を伸ばすことを大切に育ててくれたのでしょう。今の私があるのは、そんな両親のおかげと感謝しています。

高校では生物部に入っていました。プラナリア(波渦虫)を飼っていたのですが、先輩たちが修学旅行で不在の間に全滅させてしまい、めちゃくちゃ怒られました(笑)。

自己認識と現実のズレを痛感

 小学校の勉強は理科が大好きで、中学校でも実験が何より好きでした。理科室で水素や酸素を作ったりアルコールランプを使ってみたり……。どんな実験もワクワクして取り組みました。一方で、自由に文章を書いて物語を作ることも楽しんでいました。三島市は富士山の伏流水が豊かで“水の都”と呼ばれていますが、その湧き水の増減に関するストーリーを自分で勝手に考え、学級新聞に発表したりしていました。
 高校は静岡県立韮山高校の理数科に進みました。推薦入試で入学しましたから「自分はそこそこ勉強ができる」と思っていたのですが、いざ高校に通い始めると、自分の認識と現実のズレに気付かされ愕然としました。入学して最初に受けた学力テストでは、「まあまあできたんじゃないの」と手ごたえがあったんです。ところが結果は、普通科の生徒も含めた学年全体で310人中300番台。さすがに「これはマズイ」と一念発起し、何ができなかったのか自己分析しました。数学ができなかったとわかり、数学ができなければ理数科では話にならないと痛感して、休み時間や昼休みを利用し、1人で参考書の問題をひたすら解きました。すると、わからなかったことが次第に理解できるようになり、数学の勉強をおもしろいと感じるようになりました。

答えは1つ、解法はいくつも

 私の高校では数学βという科目があり、その授業は今も鮮明に記憶に残っています。先生が「この問題を複数の方法で解きなさい」と出題したのです。普通は1つの解法を教えるのですが、先生曰く「答えは1つだが、解き方はいろいろある」。「えっ!?」と思いましたが、同時に「おもしろそうだ!」と好奇心が刺激されました。答えを導き出すのに、最短ルートの解き方をすれば効率がいいけれど、他の方法でも解いてみると新しい視点が見えてくる――。先生はこういうことを教えたかったのではないでしょうか? この数学の授業で、何事においても既成概念や枠に捉われず、柔軟に考える思考力が身に付いたと思います。
 大学の進路は、『核融合への挑戦』(吉川庄一著/講談社ブルーバックス)に影響を受けて原子核工学科を志望しました。しかし、この分野を学べる大学は、当時*1七帝大と数校の私立大しかありませんでした。自分の学力に不安を感じつつも名古屋大学を目指すことに。共通一次試験(現 センター試験)に挑みましたが、自己採点では合格ラインには到底届かない点数でした。落胆して担任の先生に相談すると、「まあ一応受けてみれば」と……。そうして受けた二次試験の数学で、忘れられないことがありました。「線形写像」の問題で、見た瞬間、「こうやったら簡単に解ける!」とパッとひらめいたんです。スラスラと解答し、正解だという確信もありました。でも、試験を終えて他の学生の解答をちらっと見ると、私と同じ解き方をした人は1人もいません。皆、複雑な計算が必要な行列を使って解いていたんです。結果的に、これが点数にどう影響したかはわかりませんが(笑)、浪人を覚悟していたのに、なんとか合格することができました。翌年、*2赤本でこの問題の解答を見たら、やはり行列を使った解法が紹介されていました。しかし数年後、私の解き方が「別解」として載ったんです!高校の授業で柔軟な思考力が養われたことが役に立ったと実感したできごとでした。

*1明治時代の公布令により設立された旧帝国大学(国立総合大学)の系譜をひく7大学の通称。現在の東京大学、京都大学、北海道大学、東北大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学。
*2世界思想社教学社が発行している大学入試過去問題集『大学入試シリーズ』。表紙が赤いことから“赤本”の名で親しまれている。

高校時代は英語が大の苦手で、いつも赤点スレスレでした。今になって英語の大切さを身に染みて感じています。皆さんには「英語はしっかり勉強しておいた方がいいですよ」と伝えたいですね。

民間企業を経て再び大学に

 大学に入って核融合を学び始めると、その分野に関連する量子力学や材料におもしろさを感じるようになりました。そして放射線をガラスに当てて物性測定する研究で卒業論文をまとめると興味の対象はさらに広がり、大学院へ進学。大学生活をトータルで振り返ると、放射線の学びに重きを置き、修士課程では結晶材料工学、博士課程では*3光物性物理学に取り組むという流れで、自分がやりたい研究にとことん向き合うことができました。
 就職はそのまま大学に残る選択肢もあったのですが、外に出て民間企業で研究職に就くことに惹かれていたので、旭化成工業(現 旭化成)に入社しました。昨年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰さんが在籍されている会社です。そこで有機物質を研究する部署に配属され、食品ラップ製品の素材開発に取り組みました。そして5年ほど勤めたのち、再び名古屋大学に戻りました。大学に戻ったきっかけは、理学部の研究室が助手を公募したことでした。旧知の担当教授から「ぜひ応募を」と強く推され、応募したら運良く通って理学部助手になりました。大学では自分の研究に没頭できるだけでなく、教育にも携われることに大きな魅力を感じました。
 和歌山大学には、約20年前、システム工学部の開設間もない時期に同学部の教授に声をかけていただき赴任してきました。赴任当初は、建物は立派だけれど中身は何もなくて……。電設工事からガスや水道の配管まで、学生と一緒になって全部自分たちでやったことが懐かしい思い出です。

*3光と物質の相互作用を利用して物質の性質(物性)を研究する学問分野。

自分の専門性を磨いて生かす

 社会は今、大きく変動しています。その流れに身を委ねると、激流に飲み込まれ、自分を見失ってしまうかもしれません。ですから皆さんには、社会の変化に飲み込まれない確固たる“自己”を築くと共に、その変化を楽しみ、チャレンジする意欲を持ってほしい。文理を問わず、様々なことに興味と関心を向けて教養を身に付け、そうして得た知識や技能を活用する“しなやかな専門性”を備えてほしいと思います。
 専門性というと、堅苦しく融通が利かないものと捉えられがちで、「私はこれが専門」と決めて揺るがない人がいます。こうした“かたい専門性”は、社会が大きく動いている時には、ともすれば“足かせ”になることがあります。これからの時代は、自分の専門能力は確かなものとして持ちながら、社会の変化にあわせて、それをどう生かすかを考えることが大切でしょう。
 大学の仕組みでいうと、各学部の垣根をできるだけ低くし、他の学部へも学びに行ける分野融合型の教育を進めています。自分の専門以外のジャンルにも目を向けて、それぞれの分野の関わりやつながりを理解して全体を広く見渡す視点を持ってほしい――そう願っています。
 関塾生の皆さんには、自分が好きなものに情熱を注ぐことはもちろん素晴らしいですが、1つのことだけに捉われず、柔軟な考え方と広い視野を持って、自分をさらに高める努力をしていただきたいと思います

和歌山大学に赴任した1999年頃、ゼミの学生たちと。後列右端が伊東先生。

“起業したい”を応援します

 和歌山大学には、起業を目指す学生を支援する相談窓口があります。起業に関する勉強会に参加したり、学内外のビジネスプランコンテストに挑戦することができます。 例えば、幼い頃から起業したいと考えていたMさんは、大学院で過疎化や農業の後継者不足という地方が抱える課題を学んだことから将来について相談。「納得のいく進路を見つけるため“ 試業” をしたら?」とのアドバイスを受け、大学院を1年間休学。和歌山県南端の離島・紀伊大島で農園を営む祖父母の家に住み込み、農業訓練を始めました。農業に従事する中で、出荷できない規格外の野菜が廃棄されている現状を知り、それを活用する方法として農家レストランを開業しました。自分の夢を叶えると共に地域の活性化にも貢献しています。

学内のビジネスプラン審査会の様子。