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2018年3月号 私の勉学

父の研究対象だった幼少期

母が里帰り出産をしたので、私が生まれたのは愛媛県松山市です。しかし、すぐに実家のある広島市へ戻ったと聞いています。 私が幼かった頃の広島市は、まだ戦争の傷跡が色濃く残っていました。原子爆弾で破壊し尽くされた街の景色は、終戦から数年経った程度では元通りにはなりません。私たち一家が暮らしていた住宅も、初めのうちはバラックと呼ばれる粗末な造りの市営住宅でした。家は広島城の西側にありましたが、城郭も原爆で破壊されて石垣だけ。本当に何もない時代でした。
父は広島大学の教員でした。家にいてもずっと研究ばかりしていましたね。あまりにたくさんの本を積んでいくものですから、だんだんと家が傾いていったんですよ(笑)。 そんな父の専門は国語教育で、研究対象の一つは我が子、つまり私でした。「人はどのようにして言葉を獲得していくか?」というのが研究テーマだったようです。そこで、私が生まれてから6歳までの間、毎日欠かさずに成長の記録を書き留めていました。父が不在の時は母が代わりにしていたようです。録音機材がなく、すべて筆記で行っていたということなので、さぞかし骨の折れる仕事だっただろうと思います。成長するにしたがって、私がたくさんの言葉を扱うようになると、両親は速記を習って記録を続けたそうです。

私の幼児期の記録は、父・野地潤也の著書『幼児期の言語生活の実態』(全4巻)にまとめられています。健康状態や睡眠のことなど、言語以外の記録も載っています。

体を動かすのが大の得意

子どもの頃の遊び場といえば広島城跡でした。それから、今は入ることができませんが、原爆ドームの中でもよく遊んだものです。城の堀ではトンボを捕まえました。トンボは手の届かない水面を飛んでいるのですが、これを捕まえるのにはちょっとしたコツが要ります。ある速度で虫取り網を振ってみせると、トンボが近づいてくるんです。トンボが引き寄せられるスピードというのがあって、その隙をついて捕獲していました。そして、今度はメスが手に入ったら、体を紐で結んで飛ばしておきます。そうするとオスたちが寄ってくるので、たくさん捕まえることができるのですよ。日暮れるまで夢中になって遊びました。
私は、小学校から高校まで、広島大学の附属学校に通っていました。附属校なのですが、中学に進む際には試験がありました。そこで、小学6年生の時の担任の先生が「試験は慣れが肝要だ」と言って、毎日のように模擬試験をさせられた記憶があります。この頃は、クラスメイトと比べて勉強ができるほうではなかったので、成績もおそらく下のほうだったと思いますね。その代わり体育が得意で、運動会やマラソン大会では必ず1位。運動なら誰にも負けない自信がありました。

きっかけは「時間の流れ」

中学、高校時代に「将来はこうなりたい!」 という強いイメージは持っていませんでした。ただ、当時は「時間が流れる」という現象について、とても気になっていました。「時間が流れるとはどういうことなのか?」 ということが知りたくて調べていると、アインシュタインの『特殊相対性理論』に「光の速度で動く物質は時間が止まる」と書かれてあるのを見つけたのです。時間の流れる速さは、物体の動く速さによって変わることを知り驚きました。それで物理に少し興味が出てきました。
ところが、物理への探究を深めていくうちに、少しずつ興味の方向が動いていきました。「物理学を応用して何かを生み出すほうが、自分には向いているのではないか」 と考えるようになったのです。そこで、福井大学工学部の応用物理学科に進もうと決心しました。福井大学で応用物理学を学べることは、実は父から教えてもらいました。 父は、自分の教え子が福井市にいた縁もあって、私に受験を勧めたようです。

一匹のハエと生命の不思議

大学時代は、下宿で独り暮らしでした。
1部屋4畳半で広くはありませんでしたが、他県から来た学生が集まって賑やかなものでしたね。肝心の大学はというと、当時は*大学紛争が盛んで、授業がほとんど行われない状態が続きました。大学4年生になってようやく事態が沈静化して、その時には大学院に進もうと決めていました。研究者の道へ進む私に、影響をもたらした存在があります。それは一匹のハエです。ある日、下宿先の部屋で寝転んでいると、ハエが飛んでいるのが見えました。その様子を眺めているうちに、「ハエが飛ぶメカニズムを機械で再現するなら、とても高度な技術が必要だ」ということに気付きました。この先、最先端の工学は、生物に学ばなければならないだろうと考えました。以前から、オーストリアの理論物理学者シュレーディンガーの著書『生命とは何か』に影響を受け、生物学への興味を育んでいたことも大きかったと思います。それで、広島大学大学院時代は生物物理に取り組むことになりました。この生物物理を学んでいたおかげで、アメリカ国立衛生研究所( National Institutes of Health )に留学し、世界トップクラスの研究環境に身を置くことができました。アメリカでは「これからは分子生物学の時代で、それは世界を変えるほどの研究になる」という実感を得たことが大きな収穫だったと思います。
*大学と学生が学内問題だけでなく政治問題でも対立状態になること。大学闘争ともいう。特に1960年代末期は一部の高校や予備校まで波及した。

運動は得意だったので、中学校では軟式テニス部、高校では硬式テニス部に入って活動しました。当時、硬式テニスをやっている高校は、県下に2校ほどしかなく珍しかったです。

発生生物学の大いなる可能性

私にとって偶然にして最大の出合いは、コオロギかもしれません。岡山大学と徳島大学では新たに分子生物学を用いて発生生物学の研究に取り組みました。生命は、一つの卵から細胞分裂を繰り返して、様々な姿になっていきます。私たちの寿命、身長、腕の長さ、手の形など、様々なことがその中で決められていきます。私たち自身が「こうなりたい」と思って操作するわけではありません。とても不思議なことだと思いませんか?発生生物学とは、その未知のメカニズムを追究しようという学問です。これを解明できれば、身長も寿命さえもコントロールできるようになるのです。私は岡山大学時代から、手や足のできるメカニズムの研究を始めました。
この興味深い発生のメカニズムは、ヒトも昆虫も基本は同じです。そこで徳島大学では、さらに不思議な熱帯のランに擬態する花カマキリ(脚が花びらのように見える)を研究することにしました。擬態する昆虫を手がかりに発生と進化のメカニズムを追 おうと思ったのです。誰もやっていなかった分野であることも魅力でした。それでマレーシアから花カマキリを取り寄せて研究を始めたのですが、飼育に失敗し、増やせませんでした。その時に大量に残っていたのが、花カマキリのエサだったコオロギたちです。それで、よく考えてみると、コオロギのほうが安価だし飼育も簡単だし……ということに気が付き、研究対象をコオロギに変更したというわけです(笑)。しかし、 コオロギの持っている可能性は大きく、徳島大学では現在も様々な研究を行っています。私は、いずれコオロギを遺伝子操作して、擬態する昆虫にできると思っています。 近い将来“花コオロギ”が誕生すれば、ノーベル賞だって夢ではありません。また、コオロギは、未来のタンパク源として、地球の食料問題も解決する可能性があります。魅力的な分野だと思いませんか?

大きなビジョンを持つこと

これから大学入学を目指す皆さんには、ぜひ“マインドセット”を大事にしてほしいと思います。心の持ちようを大切にしてほしいのです。そのためにも、例えば「地球を救いたい!」など、目標を大きく持ってほしいですね。抱いたビジョンが大きければ大きいほど、それが皆さんを大きく育ててくれます。大きなビジョンを持っていれば、大学ではそれを実現する道が見つかるかもしれません。ビジョンを持っていれば、皆さんの進む方向が自ずと見えてきますね。 自分がどこへ向かってどう歩いていくのか、 指針を持って生活しないと、今何をして良いかわからないのです。ぜひ大学では、大きなビジョンを実現させるために学んでください。私たち大学は、皆さんのような若い研究者が歩む道筋を、しっかりと照らしてあげられるように、環境を整えることが使命であると思っています。

徳島大学の研究戦略

徳島大学は、世界の課題を解決する大学として、教育・研究を行うことを理念としています。日本は人口が減少していますが、地球規模では人口が増加し、やがて食料問題、エネルギー問題、環境問題など多くの問題の深刻さを増すことが予想されています。このような課題を地域から解決することが、地域の活性化にも繋がることになります。特に、日本の大学においては、基礎研究から実用化までが連続的に行える体制になっていないことが、日本において、Googleなどの破壊的なイノベーションが起こらない原因だと指摘されています。そこで、徳島大学では、産業院という新しい組織を設置し、その問題を解決する仕組みをつくってい ます。世界を変えたい意欲のある学生の皆様に、是非徳島で活躍していただきたいと思っています。(野地澄晴先生より)

若手研究者、女性研究者の育成に力を入れている徳島大学。