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2018年3月号 特集①

清少納言と紫式部はライバル関係だった?

清少納言と紫式部。共に当時を代表する女流作家であることから、「ライバル関係だったのではないか?」と言われることもあります。
その理由の一つに、紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言のことを「得意顔で偉そうにしていて、利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、よく見たら知識不足が目立つのよね。人より特別優れていると思いたがる人は、将来はロクなことがないはずよ!」などと痛烈に批判していることがあげられます。たしかに、紫式部は清少納言のことが好きではなかった、とも考えられますね。 しかし、この二人がライバル関係だったという証拠はありません。そもそも清少納言が定子に仕えていた時期と、後に紫式部が彰子に仕えた時期は10年以上も空いているので、どうやら二人は面識がなかったようです。
では、紫式部が、清少納言のことを批判した本当の理由は何だったのでしょうか。
二人の上司である定子と彰子は、それぞれ一条天皇の皇子を生んでいます。彰子の父・藤原道長は、定子の父・藤原道隆の弟です。兄の陰に隠れて活躍できなかったところ、道隆の死によって一族の権力者になりました。道長は、定子が生んだ第一皇子を押しのけて、彰子が生んだ第二皇子を、次の天皇にしようと画策しました。そんな時に、定子の才能や人柄をたたえる『枕草子』は、少し都合が悪かったのかもしれません。そこで紫式部は、それを否定する文章を書いたのではないか、という説があります。他にも、紫式部の夫について、派手な服装で趣がないと『枕草子』に書かれたから……という説もあるようですが、真相はわかりません。
直接会ったことはなかったものの、互いに知っていたことはまちがいないようですね。この二人ですが、作風もそれぞれに特徴があります。その違いを探りながら、平安文学に親しんでみましょう。